■三六難では、腎に二枚あるのは何故かという問いを設定し、左が腎、右が命門であると断じて、《難経》原文で以下のように述べられています。『命門は諸神精の舎る所であり、原気の繋る所です。男子はここに精を蔵し、女子はここに胞を繋ぎます。』

■しかし、《難経鉄鑑》で広岡蘇仙はこれを解説して、『本文ですでに腎には二枚あると言っています。また腎は精と志とを蔵し、命門はその気を腎に通じさせていると言っています。このように腎と命門とは一つの物であって、命門はただその尊称であるだけです。内腎の象が外腎に現われるということからこれを推測することができます。茎嚢〔訳注:ペニスとホーデン〕は二つの物ですが、その気を同じにして伸縮します。その茎には門があり、嚢には門がないため無用のもののようですが、茎と気を通じることによってその作用を助け合っているのです。 』と語っています。

実は、腎に二枚あって、命門はその気を受けて全身につながる門である、という解釈をなそうとしていることがわかります。これは、実際的に右が命門で左が腎であると明確に分離して考えるのではなく、二枚ある腎の機能の尊称が命門であると考えていることを意味しています。


■清代末期の葉霖はその《難経正義》で、命門を太極に擬し、『命門から両腎が生じ、両腎から六臓六腑が生じ、六臓六腑から四肢百骸が生じる。』とし、『性交を行うことによって、精が集まるよりも前に先ず火が会します。この火こそが先天の本始です。水は天一の真元です。腎中の火は名づけて相火といいます。これはすなわち〔伴注:八卦における〕坎中の龍雷の火です。この一陽は二陰の中に陥入して離となり、坎に位します。これはすなわち両腎に命門があるという意味です。命門はすなわち三焦の根であり、相火の宅です。相火が三焦に広がるのは、命門から始まるのです。・・・(中略)・・・越人はただ寸口の脉を取りよくこれを候う中で、この相火が脾土を生じ、命門が右尺に表れるということを察したために、左を腎として右を命門とすると解釈したのではないでしょうか。このことはまた、水は左を升り火は右を降るということと、その意味を通じさせるものがあります。』と、離火坎水の易の理論を運用しながら、この左腎右命門を解釈しています。





■このような命門の解釈はこの難から始まったものです。明代に入って命門学説として温補学派の理論的基礎となり、後代へ大きな影響を与えることになりました。

■『一元の気』という観点からみると、生命という皇帝に仕えるもっとも重要な大臣として、右大臣と左大臣を設けたという風に考えることができます。国は皇帝一人で成立するものではありません。全体が「ひとつ」なのですが、そこには尊卑の違いがあります。その中核の大臣の中で、右大臣の方が尊く左大臣の方が卑しいわけです。「右命門」「左腎」という分類は、このような背景があって《難経》ではなされたのではないでしょうか。分けてはいますけれども、「一元の気」である生命、皇帝を支える機能としては尊卑の区別がなされるだけで、差はないということではないでしょうか。


■「命門」は、《黄帝内経》にあっては、「目」を指していました。《難経》とは意味が違います。





「目」に関して、古文字学者である白川静は面白いことを言っています。古代人は、辺境の地の眺望の良い場所に大きな器を埋め、呪器として、外族の侵入をはばむことを祈願したと彼は考えているのですが、その際の儀式として「望」という方法を用いたのであろうと推測しているわけです。「望」とは、遠くを望み見るという意味で、それは『見るという、眼の呪力に訴える行為であった。見るということは、その対象に働きかける力があると、考えられていたのである。』《中国古代の文化》〈講談社学術文庫:69PAGE〉ということです。

古代、「目」はそのような呪力をもつ重要な器官であり、まさに、民族の存亡の関わる「命門」であったのでしょう。このように考えてみると、「命門」が「目」であった時代というのはかなり古い時代にさかのぼるのではないかと思われますが、《難経》はこれを、人間個人の生命の中心である右腎の別名としてあげているわけです。

これはつまり、民族の存亡をかけた呪詛の主体としての「命門」である「目」から、個人の生命の中心としての「命門」である「右腎」へと、いわば集団から個人へと、その思想の着眼点が変遷してきたということを示しているのではないかと考えられます。

このことは、《難経》が《黄帝内経》よりも新しい時代の思想を反映していると考えることができるのではないでしょうか。まさに、道士として個人の力をたくわえてきた時代の思想の反映なのではないか、そのように私は考えています。







2001年 2月 4日 日曜   BY 六妖會




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