第三七難の検討 ―(その1)



三七難は、始めに五行論、次に陰陽論、そして最後に統括としての一元論が使用されています。ここでは思想地図の考え方に従って、この難の最後尾、《難経鉄鑑》の区分における最後の三段についてだけ触れます。三七難はこのように東洋医学の基本的な概念を総括して提示していると見ることもできますので、そのような観点から読み返してみると、興味深いかもしれません。

三七難は、《霊枢・脉度》に対応しているといわれております。そして確かに、記載が似ております。この難を考えていく時にはその相互の相似点と相違点とを引き比べて考察をすすめていく必要がありましょう。







さて、今回の課題の、

『経に、気が独り五臓に行き六腑を営さなくなる、とあるのは何なのでしょうか。 』『然なり。気が行く場所は水が流れて止むことがないような状態です。ですから陰脉は五臓を営し、陽脉は六腑を営します。環に端がないような状態であり、その紀を知ることがなく、終わってまた始まります。 』『もし覆溢しなければ、人の気は内に臓腑を温め外に腠理を濡します。 』


という部分です。これを簡単に言えば、「経には、気が五臓だけめぐって腑をめぐっていないという風に書いてあると思うんだけれども、どうしてなの?」という黄帝の質問に岐伯という名医が答えて、「いやぁ、気というのは全身をめぐっているものなんだから、臓腑ともにめぐっているものだし、正常な状態であれば、内に臓腑、外に腠理というふうに全身を養っているものなのですよん」ということを述べているものなのですね。

これはまさに《霊枢・脉度》の

『 黄帝は言われました。気は独り五臓に行き、六腑を栄さないのは、どうしてなのでしょうか?

岐伯は答えて言われました。気というものは、水の流れのように、日月がめぐって休むことがないように、めぐらないところがありません。ですから陰脉はその臓を栄し、陽脉はその腑を栄します。環に端がないような状態であり、その紀を知ることがなく、終わってまた始まります。その流溢する気は、内に臓腑を潅漑し、外に腠理を濡養します。 』


に対応していると考えられます。元代の滑伯仁以来、この文章は、だいたい似ており、同じことを述べているのであろうと考えることが主流となっています。







しかし、明代張景岳の《類経》によりますと、《霊枢・脉度》のこの文章は単独に存在しているわけではなく、その前後が陰陽の蹻脉の解説にあてられていることから、ここで述べられている陰脉陽脉というのは当然、それぞれ陰陽の蹻脉のことを指していると考えなければならないと述べられています。

ためしに、《霊枢・脉度》におけるこの文章の前の部分を読んでみましょう。

『黄帝は言われました。蹻脉はどこに起こりどこに止まるのでしょうか?

岐伯は答えて言われました。蹻脉は少陰の別です。然骨の後ろ〔注:照海〕に起こり、内踝の上を上り、真っ直ぐ上って陰股をめぐり、陰に入り、上って胸裏をめぐり、缺盆に入り、上って人迎の前に出、(九頁)に入り目の内眥に属し、太陽に合します。陽蹻は〔注:《聖済総録》には、「陽蹻は」という言葉がなく、「その気は」となっています。〕上行して、気が合わさって互いにめぐって、目を濡養します。気が栄することがなければ目が閉じません。』


この文章の後に上記の文章がつながってきます。ですから、もし文脈を読むことができるならば、次のように黄帝の問いの意味が理解できるでしょう。

黄帝は、蹻脉は少陰の別であり、それが上って陰に入るということから、これは臓を養うものと理解され、それでは六腑を養う気とは一体なんなのだろうかと思ったのであると。

そのため、『気は独り五臓に行き、六腑を栄さないのは、どうしてなのでしょうか?』という質問が黄帝によって発せられたのでした。《霊枢・脉度》との対応ということを考えようとするならば、このような文脈の中から、岐伯の答えの意味も考えていかなければなりません。

ところが《難経》では、そのような文脈を無視して、あたかも一般論であるかのように、後段の質問だけが突然提出されているわけです。







このことに気がつき怒りの声をあげたのはあの清代の名医、徐霊胎でした。彼は、《霊枢・脉度》の今私〔注:伴 尚志〕が引用した文章すべてを引いた上で、

『経文はこのようになっています。であれば気というのは蹻脉の気のことを指しており、いわゆる臓に行き腑を営さないという言葉は、岐伯がもっぱら陰蹻の起止だけを明確にし、陽蹻にまで十分に触れず、陰経の道路を語っているだけだったために黄帝は疑問を抱いて、この問いを発したものです。今〔伴注:《難経》では、〕蹻脉に触れている部分を除去しています。いわゆる気とはなんの気なのでしょうか、いわゆる五臓を行き、六腑を営さないというのは、どこを指しているというのでしょうか? 問答というものは経文のすべてを引用しなければいけません。まったく発明というものがなく、語るに落ちるというべきでしょう。これは誤り脱漏の極みであると断じなければなりません。越人のいいかげんさはこのようなものなのです!

さらにまた、最後の二句、経文に「流溢の気」とあるのを〔伴注:《難経》では〕わざわざ「人の気」と改めています。これでさらに明瞭さが失わされていることになります』


と。

激しい批判文であります。まさに当を得ていると言うこともできましょう。







しかしこれを、越人がそのいいかげんさによって、改変したのではなく、故意に改変し、自身の身体観を表明したと把えるとしたらどうなるでしょうか。越人はこのような小さな改変によって、経文の内容を解説しようとしたのではなく、自身の身体観を明確に提示しようとしたと考えることもできるのです。

それはまさに、一元の流行する気が陰陽を分かつことなく交流する中から身体を構成しているものであると。正常な人体においては、『内に臓腑を温め外に腠理を』濡養しているのである。このことを実に越人は、語らんとしていたと考えることができましょう。

そのように考えていくと、徐霊胎は《黄帝内経》に拘執し《難経》の本旨を誤解していると考えることができます。

また、これに反して《難経》の作者が、いかに人体を観察しその直感の中から自在に《内経》の文言を解釈していったかということが理解されると思います。









2001年9月16日 日曜   BY 六妖會




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