第 三十八 難

第三十八難




三十八難に曰く。臓には五種類しかないのに、腑には六種類あるのはどうしてなのでしょうか。


臓腑は表裏をなしますからその数は同じはずなのですが、腑が一つ多いのはどうしてなのでしょうか。






然なり。腑に六種類あるというのは、三焦のことを言っています。原気の別であり、諸気を主持し、名前はありますが形はありません。その経は手の少陽に属します。


腎間の一原気が別れて三焦となります。冬至のときに来復した一陽が、分かれて三時となるようなものです。一年を三時に分けるのは天竺のやりかたです。今、俗に三時の初めの月に祭祀を設けることがあるのは、このためです。原気の別というのは三焦の本体であり、諸気を主持するということは三焦の作用です。原気は気の主宰であり、諸気は気の奉使です、このように無形の中にも主となるものと使となるものとがあります。仏教に心王心数〔訳注:心という無形のものの中に、中心となるもの「王」と、雑多なもの「数」とが存在する〕という言葉があるようなものです。三焦は気の腑であり、諸気は三焦に会します、これはすべての地方から京師〔訳注:都〕に輻湊する〔訳注:四方八方から集まってくる〕ようなものです。慮〔訳注:余分な思慮〕がなくさらに形がないものはよく通達していくため、その主用〔訳注:主る所の作用〕は莫大になります。十二経はもともと三焦が主る所なのです。けれども、十二経を六臓五腑それぞれに割り当てて主らせると、手の少陽だけには主るものがなくなりますので、手の少陽が三焦に属することとなりました。海内〔訳注:国内〕に主がない土地は、全て君主に属するようなものです。






これは外の腑です。ですから腑には六種類あるというのです。


三焦は無形の腑ですから、五腑の外にあります。この外の腑を五腑に加えると、六という数になるわけです。


問いて曰く。無形と有形とが、並んでいる理由は何なのでしょうか。

答えて曰く。万物は有と無の関係から逃れることはできません。天地は有でその中間は無であり、屋舎〔訳注:家の本体〕は有で戸牖〔訳注:戸や窓〕は無であり、人身は有で心は無であり、生は有で死は無であり、事〔訳注:事実〕は有で理〔訳注:理論〕は無です。大鵬〔訳注:大きな鳥〕のように大きなものであっても、鷦螟(しょうめい)〔訳注:鳩の一種や虫の一種〕のように小さなものであっても、全てこのように有と無とを具えています。ですからこの有と無とをよく理解できれば、あらゆる物事の理を尽すことができます、これを玄と言い、衆妙の門とします。まことに深い趣があるところです。



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