第 四 難

第四難




四難に曰く。脉に陰陽の法があるとは、何なのでしょうか。


この難では、三種類の説をあげて陰陽の脉法を詳しく語り尽しています。三難では胃の気を失うことによって陰陽が隔絶することを言い、この難では中州〔訳注:胃の気〕を得ることによって陰陽が互いに和することを言っています。






然なり。呼は心と肺に出、吸は腎と肝に入ります。呼吸の間に脾は穀味を受けます。その脉は中に在ります。


呼吸は息です。人は呼吸することによって生きています。この気息〔訳注:呼吸〕は形がなく陽に属します、天が人を養っているのです。穀味〔訳注:食物〕は形があり陰に属します、地が人を養っているのです。一呼吸の中にもまた陰陽があります。陽は呼であり、心肺のある陽分から出て人身の陽を養います。陰は吸であり、腎肝のある陰分に入り、人身の陰を養います。脾はこの呼吸が升降している中間にあり、陰陽を共に養います。上焦は純陽であり下焦は純陰です、呼吸するということは、一瞬も休むことなくその陽を養い陰を養うということなのです。脾はその陰陽の真ん中にあって偏ることがないので虚空の状態となり、穀味を受け取ることができるのです。「呼吸の間」とある中のこの「間」という字は非常に重要です。間隙があるがゆえに穀味を受け取ることができ、そこから後天の気を生じ、先天の呼吸を続けることができるようになり、上部の陽や下部の陰などのあらゆる場所を養うことができるようになるからです。穀は地から生ずるものであり、その味は穀の性です。そのため、穀が壊れるとその味も失われます。これは、穀がその性を失ったからであるということもできます。このことから、性とは生の意味だということが判るでしょう。脉というものはそのような気機が発動したものです。ですから、先ず呼吸の解説をし、その後に脉状の解説をしているのです。呼のときは気が浮かんで升りますので、心肺の脉も浮きます。吸のときは気が沈んで下りますので、腎肝の脉も沈みます。脾は中気を主りますので、その脉もまた中にあるということになります。


私は思うのですが、人の陰陽が和平でない場合は、呼吸も調っていないものです。ですから、呼吸からその人の陰陽が和しているかいないかを候うこともできます。陽虚の場合はその呼吸も微でしょうし、陰虚の場合は呼吸も急となります。陽実のものは呼吸も粗く、陰実のものは呼吸も滞ります。陽が病んでいる人は吐気し難く、陽絶の人は吐気が先ずできなくなります。陰が病んでいる人は吸気し難く、陰絶の人は吸気が先ずできなくなります。その性質が寛であればその息もまた寛であり、その性質が急であれば息もまた急です。長寿の人は呼吸が長くて静です。大きい人は呼吸が短くて騒がしく、健康な人は呼吸も滑らかです。苦しんでいる人は呼吸も渋ります。陽性の人は呼吸が浮かび、陰性の人は呼吸が沈みます。賢人は呼吸が治められており、妄人は呼吸が乱れています。呼吸を脉の冒頭に置いていることは、非常に重要なことだと思います。






心肺の脉状がともに浮であるなら、どうやってこれを区別すればよいのでしょうか。

然なり。浮で大散のものが心であり、浮で短濇のものが肺です。

腎肝の脉状がともに沈であるなら、どうやってこれを区別すればよいのでしょうか。

然なり。牢で長のものが肝であり、これを按じて濡、指を挙げれば来ること実のものが腎です。脾は中州なのでその脉は中に在ります。これが陰陽の法です。


五臓の脉状を説明する際、浮沈を基準として説明するのが陰陽の法です。心は夏に象ります。夏は、陽気が浮いて昇り、あらゆるものが美大で開散の状態にありますが、心の脉もまた浮で大散です。肺は秋に象ります。秋は、浮いた陽気の中に陰気を生じます。その陰性は物を殺しますので、美大のものは短折となり、開散のものは収濇となりますが、肺の脉もまた浮で短濇となります。腎は冬に象ります。冬は、生気が微少となり、嫩濡で伏実となりますが、腎の脉もまた濡で実となります。肝は春に象ります。春は、軟弱なものも牢強となって出、屈実するものも舒長して発します〔訳注:が、肝の脉もまた牢で長となります〕。脾は四季に象りますので専有する気はありません。そのためその脉状もここではあらためて語られてはいません。これは、中州が四方を兼ねるようなものです。もし四方の国を分割してしまうと、中州はただ内容のない名前だけになります。またこれは、日を数えるときに年の意味がそこにはないようなものです。前の経文にある中とは、浮沈における中のことを言っていますが、この経文における中州とは、四方における真ん中のことを意味しています。脾は上下四方の真ん中にあって、ただ一団の〔訳注:一つの大きな〕和気であるという考えがここに読み取れます。


問いて曰く。心肺の脉状に対して「浮」の字を用いることは納得できるのですが、どうして腎肝の脉状には「沈」の字を用いないのでしょうか。

答えて曰く。この経文で分けられている浮沈は病脉ではありません。ですから胃気に包含されて微し浮き、微し沈んでいるだけです。もし極端に浮沈を区別するときは、それは病脉の浮沈です。「沈」の字を用いていないとは言っても、牢長と言うときは浮濇に対して言っているのであり、濡実と言うときは大散に対して語っているのですから、浮沈の意味がその中に当然含まれています。これは人々を浮沈という言葉に拘泥させないように考えだされた語法でしょう。この語法は、五難に十五菽を挙げていないことと相い通じるものがあります。






脉状には一陰一陽、一陰二陽、一陰三陽があり、一陽一陰、一陽二陰、一陽三陰があります。ここに言うように、寸口に六脉がともに動ずるということがあるのでしょうか。


この難の三節は、初めに陰陽の脉状を浮沈から考えていくということを説明し、次に浮沈の中にまた浮沈の区別があるということを説明し、最後には浮沈の中に三陰三陽の錯綜があるということを説明しています。このような三種類の説明で、陰陽の脉状の変化を説明し尽そうとしているわけです。これまでの二難では、陰陽の常法〔訳注:正常な状態における法則〕として脾が中にあって和平の脉状を呈するという、脉診し難いものについて説明しているため、その結びの文には陰陽の法を語っています。この難では、陰陽が和平を呈さず偏勝して病を生ずるということを説明しているため、下文でこれを結ぶ際、病の逆順を語っています。






然なり。この言葉は六脉がともに動ずるということを言っているのではなく、浮・沈・長・短・滑・濇の六種類の脉状について言っているのです。


答えとして先ずその大旨を挙げています。前の経文で六脉がともに動ずると言っているのは、寸口の部位に六脉が混在して現われるということではなく、浮・沈・長・短・滑・濇の六種類の脉法があるということを言っているのです。浮は脉気が上り浮かんでいるものです。沈は脉気が下り沈んでいるものです。長は脉気が長く満ちているものです。短は脉気が短く縮まっているものです。滑は脉気が流滑なものです。濇は脉気が滞濇しているものです。浮沈には上下という意味があり、長短には左右という意味があり、滑濇には中間という意味があります。どうしてこのように言うかというと、中気が通じているときは滑脉を呈し、通じていないときは濇脉を呈するからです。これはまた、滑濇が上下左右に通ずる理由でもあります。






浮は陽です、滑は陽です、長は陽です、沈は陰です、短は陰です、濇は陰です。


一陰一陽をこれを道と言います。脉状もまたこの道を離れることはできません。浮は陽の性〔訳注:本性〕です。滑は陽の用〔訳注:機能〕です。長は陽の体〔訳注:本体〕です。沈は陰の性です。短は陰の体です。濇は陰の用です。さらに浮沈升降は陰陽の本性ですから、浮沈を初めに置いているのです。また陽は用を主としていますので、滑を先に置いて長を後に置いています。陰は体を主としていますので、短を先に置いて濇を後に置いています。陰陽の状態はこの六脉に全て備わっているのです。






いわゆる一陰一陽とは、脉が来ること沈で滑のものを言います。一陰二陽は脉が来ること沈滑で長のものを言います。一陰三陽は脉が来ること浮滑にして長で、時に一沈するものを言います。


病が生ずるのは、陰陽が錯綜しているためです。そのため脉状にも陰陽が錯綜して現われる場合があります。脉状が沈で滑のものは、腎肝という陰の中に陽邪があり、風暑・耳鳴・眼昏・腰脇痛・精濁淋閉・奔豚(腎積:少腹から胸部にかけて衝き上げてくる激しい苦痛をともなう症状)肥気(肝積:左の季肋部の下にできる杯を伏せたような塊)等の徴候を表わします。沈滑で長のものは、陽邪が盛で熱毒が甚しい状態で、中州の和気が傷られたためになるものです。そのため脾胃の病もあり、中熱・狂斑等の症状を表わします。浮滑で長のものは、邪が転々と甚だしい状態で、心肺の部を犯したためになるものです。ですから浮脉を表わしているのです。時に一沈する理由は、もともと腎肝の邪によって出ている脉状であるために、時々陰の状態が現われたものです。これは陽病に陰を兼ねる病状、つまり熱病に痼を兼ねたり積を兼ねたりといった症状を呈します。






いわゆる一陽一陰とは、脉が来ること浮で濇のものを言います。一陽二陰は、脉が来ること長で沈濇のものを言います。一陽三陰は、脉が来ること沈濇で短で、時に一浮するものを言います。


脉が浮で濇のものは、心肺という陽の中に陰邪があり、寒湿・舌強・鼻塞・胸背痛・乾嘔・喘咳・伏梁・息賁等の症状を表わします。長で沈濇のものは、陰邪が盛で寒毒が甚しい状態で、中州の和気が傷られたためになるものです。そのため脾胃の病もあり、中寒・痛瀉等の症状を表わします。沈濇で短のものは、邪が転々と甚だしい状態で、腎肝の部を犯したためになるものです。ですから沈脉を表わしているのです。時に一浮する理由は、もともと心肺の邪によって出ている脉状であるために、時々陽の状態が現われるのです。これは陰病に陽を兼ねる脉状、つまり寒病に煩を兼ねたり燥を兼ねたりといった症状を呈します。


問いて曰く。今脉状から病状を診察する方法を語られましたが、その中に古法と異なるものがあるのはどうしてでしょうか。

答えて曰く。古人が法を立てたものは、その一隅〔訳注:本質的なひとつの観点〕について語っているだけなのです。もし三隅から見てもその法に反しない〔訳注:あらゆる場合を想定してそれに反しない法則を掴む〕ためには、どう考えればよいのでしょうか。たとえば風熱の証のものは、その脉状は浮滑でなければなりません。しかし反って沈濇のものがあります。その脉状は異なっていますが、風熱によって血気が閉塞しているということでは一つです。元陽衰敗の証のものは、その脉状は虚細でなければなりません。しかし反って実大のものがあります。これは元陽が衰敗することによって和を失っているということでは一つです。このように、脉を診ようとするものは、本質的な一つのことを診察し得れば神〔訳注:名人〕であると言えるのです。このことを《内経》では、『上は神を守り、粗は形を守る、その形迹に泥む者はともに議するに足らず』〔訳注:この文脈では。上手な治療家は病の本質を求め、下手な治療家は脉状にとらわれる。脉状という形跡に把われている者とはともに語るに値しない。という意味〕と語っているのです。






各々その経の在る所によって病の逆順を名づけていくわけです。


この文によって三陰三陽の脉変を結んでいます。各々とあるのは、六脉を指しています。経とは、十八難に、部に四経ありとあるものがこれで、脉の部位を指します。この六脉の変化を五臓六腑の経に配し、某の病は某の経に在るということを知ろうとし、また病が順であって治し易く、逆であって治し難いということを診察するのです。名づくとは、病をよく理解しその病をそう呼ぶということです。たとえば脉状が陰陽ともに盛で緊濇のものを傷寒と名づけるという類、また、上部の脉状が沈濇のものは、陰邪が陽位を侵している状況であるから逆とし、脉状が浮滑のものは、陽邪が陽位を侵している状況であるから順とします。また心部に肝脉を得るときは相生関係ですから順であり、心部に腎脉を得るときは相剋関係ですから逆とするという類など、広く応用することができます。



一元流
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