第 四十二 難

第四十二難




四十二難に曰く。人の腸胃の長短と、水穀を受ける多少は、それぞれどれほどなのでしょうか。


腸胃には大小長短があります、ですからそのおのおのが受ける物にも多少があります。






然なり。胃は、大きさ一尺五寸、径五寸、長さは一尺六寸です。


これは長短について答えています。腹部の内の尺寸を見ることはできませんので、口舌の広さ二寸半を取って用い法〔訳注:基準〕としています。以下もこれにならいます。これは外部から内部を知る方法です。






横に屈して水穀を受ける量は三斗五升、その中には常に穀二斗、水一斗五升を留めています。


これは容量の多少について言っています。胃は上に咽管に連なり、水穀を入れ、下に横に屈して水穀を留めます。この升や斗といった量もまた見ることはできません。口には五合入れることができるということから、これを採って用い法としています。以下もこれにならいます。昔は片手一杯盛ったものを溢としてこれを五合とし、両手一杯盛ったものを掬としてこれを一升としました。今、試しに、口に一杯水を入れて計ってみると溢の量となり、大きく口を開けて目一杯入れると掬の量となります。けれども掬の量を口の中に入れてしまうと呑み込み難くなり、溢の量であれば呑み込むことが簡単にできます。ですから、これが溢の量を基準として用いている理由なのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。






小腸は、大きさ二寸半、径八分と分の少半〔訳注:一分の三分の一〕、長さ三丈二尺です。穀を受ける量は二斗四升、水は六升三合と合の大半〔訳注:一合の三分の二〕です。


小腸は胃の大きさと比べるとその六分の一であり、胃の長さと比べるとその十二倍であり〔訳注:二十倍の誤り〕、胃が穀を入れる量と比べると四升多く、胃が水を入れる量と比べると八升七合弱だけ少なくなっています。






回腸は、大きさ四寸、径一寸半、長さ二丈一尺、穀を受ける量は一斗、水は七升半です。


大小腸は闌門で会して、水穀を泌別します。その水気は膀胱に滲入し、穀滓は肛腸に送り出されます。






広腸は、大きさ八寸、径二寸半、長さ二尺八寸、穀を受ける量は九升三合と八分合の一〔訳注:一合の八分の一〕です。


小腸はその大きさが二寸半なので小と言い、回腸はその大きさが四寸なので大と言い、広腸はその大きさが八寸なので広と言います、皆なその周囲の大小によって名づけられています。広腸はただ穀滓〔訳注:便〕を受けるだけで水はありませんので、穀の数だけをあげています。






ですから腸胃は、長さ五丈八尺四寸になり、水穀を受ける量を合計すると八斗七升六合と八分合の一となります。


水穀を受ける量をそのまま足していくと九斗二升二合弱となり、本文の合計数と較べると穀が四升六合弱多くなります。これはなぜかと考えてみると、広腸の穀の半ばは滓に化して大便として出ていきます。ですからその半分を減じた数をあげているのでしょう。後難に、圊(せい)〔訳注:排便すること:便所〕に至ること五升とあるのがこれです。この九斗二升二合というのは実数であり、常にそこから五升少なくなるというのは虚数です。《内経》に、水穀が口に入ると胃が実して腸が虚します、食が下っていくと腸が実して胃が虚します、とあります。このように空虚な場所があるので気道がよく通じ、飽きるほど飲食しても腸悶するような苦しみはなく、穀滓を圊し去るとしても餒羸の患〔訳注:飢える心配〕がないのです。けれどももし腸胃がともに実する場合は、気道が閉塞し、危険な状態になります、ですから腸胃の中には常に虚数を入れているのです、実数をそのまま受けることに耐えられないからです。物事というものは完全に実しているときにはかえってその用をなすことができなくなるものです。たとえば飲食物を口一杯に頬張ると、咀嚼できなくなります。これがいわゆる、天はまだ完全ではない、天下に階層があるということであり、物は完全ではないが故に生きていくことができるということです。






これが腸胃の長短と、水穀を受ける量の数です。


腑のうちで火金の陽に属するもの〔訳注:すなわち小腸と大腸〕はその長さが長くて大きさは狭く、土水の陰に属するもの〔訳注:すなわち胃と膀胱〕はその長さが短かく大きさは広くなっています。このような腸胃の形は、地の陰陽に隨ったものです。






肝は、重さ二斤四両、左三葉、右四葉で、合わせて七葉、魂を蔵することを主ります。


肝の形は開散しており、木の葉の敷栄している〔訳注:繁っている〕状態に象ります。左は陽で三葉あり、右は陰で四葉あり、合わせて七葉となって、少陽の数となっています。






心は、重さ十二両、中に七孔三毛があり、精汁を盛ること三合、神を蔵すことを主ります。


心の形は尖円であり火に象ります。外は実し内は空虚であり、離〔訳注:易の離火の卦、上下に陽爻があり中に陰爻がある〕に属します。心の形が一団となっており凝り固まっているのは、太陽が純厚で分割できない状態を現わします。心の形はまた例えるなら蓮の房のようなものです、血膜によってくるまれているのは蓮華に紋理があるようなものであり、七孔は蓮房に窠〔訳注:小さい竅〕があるようなものであり、三毛は蓮の中に蕊(しべ)〔訳注:めしべとおしべ〕が吐かれているようなものです。今、蓮藕〔訳注:蓮根〕を観ると、その中には七孔と三毛孔とがあります、これによればもしかすると、三毛とは三毛孔のことであって非常に小さな孔ことなのではないかという疑問もあります。


問いて曰く。心だけが精汁を盛るのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。他臓の精汁の多少は、個々の生来の体質の強弱によりますので、その数量を計ることはできません。心が精汁を蔵する多少は、人の賢愚に繋がるものです。ですから、七孔三毛の人であれば精汁三合を盛っているということになります。これは特に上智の人〔訳注:賢い人〕を基準として語ったもので、痴呆の人の場合はその孔も小さいので、精もまた少なくなります。






脾は、重さ二斤三両、扁広三寸、長さ五寸、散膏が半斤あり、血を裹み、五臓を温めることを主り、意を蔵することを主ります。


脾の形は扁大であり、土に象ります。脾だけが水穀を化することを主り、六腑と同じようにその用を果たします、ですからその寸法のあげ方も六腑のような順番にしています。「膏」とは水穀が気化によって色が白くなったもので、肌膚を潤し光滑な状態にします。「血」とは水穀が血化によって色が赤くなったもので、筋脉を充実させて栄茂させます。これらが、五臓を温め全身を潤すわけです。






肺は、重さ三斤三両、六葉に両耳があり、合わせて八葉、魄を蔵することを主ります。


肺は五臓の華蓋となるもので、その穹窿〔訳注:中央が高く盛り上がっている状態〕は天に象り、その質は玲瓏〔訳注:珠のように美しく透き通っている状態〕で金に属し、その気は清明で秋を主ります。ですから少陰の数である八を得て、その形も八葉になっているわけです。大きなものが六葉で、小さいものが二葉あり、両耳のような形になっています。


問いて曰く。肺は天に象るのですから円のようであるべきなのに、反って華蓋や蜂の房のような形なのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。人が地上にいて天を候うと、天は四方に垂れて伏せた碗のような形に見え、華蓋や蜂の房に似ています。つまり、天の体は円ですけれども、その現われ方が半円であるというだけのことです。これは、地平が天体の半腹を中折していることに似ています。輿図に全星の形として描かれているものもこのようなものです。






腎には二枚あり、その重さは一斤一両です。


腎の形は円形で水珠のような点に象ります。仏教で、水は円形をなすと言うのもこのことです。


問いて曰く。この斤両はどうやって計ったのでしょうか。

答えて曰く。これはただ臓腑の軽重を比試することによって知っただけのものでしょう。無理に解釈しないようにしてください。また経文に斤両を語っているものは、舌を外から見て決めたものでしょう。大きさが舌と同じような一枚の肉臠を見つけてその肉の重さを測ってそれを十両と定め、そこから推し計って臓腑の軽重の大まかな所をうかがったものなのではないでしょうか。


問いて曰く。肝肺には科形〔訳注:枝分かれいている形〕がありますが、心脾腎にはこれがないのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。金木には質がありますので枝分かれしてそれぞれ少陽少陰の数に合しています。水火には質がなく、土にもまた堅固な質はありませんので、渾合しているときはその体は一つになっていて枝分かれした形にはなりません。また少陰と少陽とは陰陽の交わる所ですから、七と八とに枝分かれします。これに対して太陽と太陰とは純粋な陽・純粋な陰であり、一団の渾然とした塊になります。また土は陰陽の混和ですからその形が分かれているのを見ることはできないのです。


問いて曰く。五臓の軽重が斉しくない理由は何なのでしょうか。

答えて曰く。金の質は堅剛ですから最も重くなります。木質は堅いものですけれども金には及ばないので、二番目に重くなります。土壌は柔脆ですからこの次に重くなります。水は形はありますけれども質はないので軽くなります。火は象はありますけれども体はないので、最も軽くなります。


問いて曰く。五臓の尺寸をあげていないのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。五臓に大小や高下があるのは、人身の大小の度には依りません。たとえば身長は高くとも心が小さいものがあり、身長は矮短でも〔訳注:低くても〕心が粗のものがあるといった類がこれです。《内経》にいわゆる、赤色で小理の〔訳注:皮膚のキメが細かい〕ものは心が小さく、粗理の〔訳注:皮膚のキメが粗い〕ものは心が大きいといった類なども、身長の長短によるものではないということを見ておいてください。五臓が小さいものは堅固であり、大きいものは軟脆〔訳注:軟らかく脆い〕ですから、その重さを測ると斉しく、そこに軽重の上での差はありません。これが重さをあげている理由です。けれども六腑の場合はそうではありません。その身長が高ければ腑もまた長大であり、その身長が短小であれば腑もまた短小です。そのため尺寸をあげて人身の度〔訳注:長さ〕に従わせているのです。ただ、脾は腑に類しているため度があり、胆は臓に肖(かたど)られているために度がありません。






胆は、肝の短葉の間にあり、重さ三両三銖、精汁三合を盛ります。


胆は清浄で尅化の用〔訳注:消化作用〕に関与せず、ただ肝の下にあって発生の功を輔佐しています。その用〔訳注:機能〕は五臓に類し人身の度には隨いません、ですから尺寸をあげていません。その形には大小の差がありますけれども精汁を盛る量は同じです、ですから三合と言っています。この「合」は一満口五合の法〔訳注:口一杯に水を含んだ量が五合であるという説〕を用いていると考えるべきでしょう。


問いて曰く。胆汁の味が苦いのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。肝は血海でありその味は酸です、これは自身の正しい味です。火は木の子であり、火には体がなく木を体とします、ですから胆の形は団長となります。輿図に木形とあり、その色は紫で、味は苦であり、おおむね心に似ています。胆は腑ですから卑しいので、木の正味を避けているのでしょう。


問いて曰く。胆の用は五臓に類し、脾の用は六腑に似ているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。木は万物を提し高く升り、陰陽ともに尊く、肝と胆とは斉しく清らかです。土は万物を載せて下り凝り、陰陽共に卑しく、脾と胃とは同じく濁っています。これはその用です。その体を言うときは、脾は神を蔵しますので尊く、胆は神を蔵しませんので卑しいのです。臓腑の別がここに現われています。


問いて曰く。勇者は胆が大きいのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。この、胆が大きいというのは、胆精が充実して堅く、その筋力が盛壮であることを言っているのであって、粗大であるということを言っているのではありません。斗の大きさほど胆が大きいと言うものがありますが、これは臓腑の偏です。






胃は、重さ二斤一両、紆曲屈伸し、長さ二尺六寸、大きさ一尺五寸、径五寸、穀二斗と水一斗五升を盛ります。


六腑は長短を主としますので先ず尺寸をあげています。五臓は軽重を主としますので先ず重さをあげます。六腑にもまた重さがありますので再びこれをあげています。もし重さをあげて度量の数がない場合は、おそらく人はこの重さと上節の度量の数とに差があるではないかと疑いますので、再び上のように度量を掲げているのです。「紆曲」とは敦阜の〔訳注:大きく分厚い〕形です。「屈伸」とは、食が充実しているときは胃が伸び、食が消化されたときは胃が屈するという、飢飽の用について語っている言葉です。






小腸は、重さ二斤十四両、長さ三丈二尺、広さ二寸半、径八分分の少半〔訳注:八分と三分の一〕、左に回って疊積すること十六曲、穀二斗四升と水六升三合合の大半〔訳注:六升三合と三分の二〕を盛ります。


赤腸が左に廻るのは、陽道が左旋するからです。火は木を質としますので、回疊して旋風羊角の〔訳注:羊の角のように旋転している〕象を呈します。また腑は卑しいので、小腸と大腸とは火金の正形を避けています。






大腸は、重さ二斤十二両、長さ二丈一尺、広さ四寸、径一寸、臍に当って右回すること十六曲、穀一斗と水七升半を盛ります。


白腸が右回するのは、陰道が右旋するからです。水の形は金によって現われますので盤渦〔訳注:盤の中の渦巻〕の象を呈します。水に金や石がなければ泥沢であるだけです。臍に当って居すということは、その募が臍傍にあることを意味します。心肺は栄衛を主として外に周ること一十六丈二尺であり、大小腸もまた心肺に配して内に積して十六曲します。






膀胱は、重さ九両二銖、縦の広さ九寸、溺を盛ること九升九合です。


横には大小の違いがあり、縦は人身の度数に従いますので、縦をあげて横をあげていません。






口は、広さ二寸半です。


口は六腑の上門ですので、寸法をあげておかなければなりません。


問いて曰く。口には大小があり、人身の長短に従いません。どうしてその寸法をあげているのでしょうか。

答えて曰く。口の広さもまた人身の度に従います。その人身の度に従わないものは生の偏です。






唇より歯に至る長さは、九分です。


唇と歯との距離は九分です。






歯から会厭に至るまでは、深さ三寸半で、その大きさは五合を容れるほどです。


歯は口の前墻〔訳注:前方にある垣根〕であり、会厭〔訳注:のど・舌骨の後ろ〕は口の後扉です、その前後の間は三寸半あり、その量は五合を容れるほどです。この五合がいわゆる一満口にあたります。






舌は、重さ十両、長さ七寸、広さ二寸半です。


舌は口の内主であり、口の深さ三寸半の間にあり、巻舒する〔訳注:巻いたり伸びたり〕ものです。これを伸ばすと七寸の長さとなり、これを巻くとその半分にまで小さくなります。






咽門は、重さ十二両、広さ二寸半、胃に至るまでの長さは一尺六寸です。


咽門は飲食を送輸する上門であり、下に胃に連なります。






喉嚨は、重さ十二両、広さ二寸、長さ一尺二寸で、九節あります。


喉嚨は呼吸が疏通する上槞〔訳注:上部の窓〕であり、下は肺に接します。九節あるのは、九は太陽の数で金に属するからです。






肛門は、重さ十二両、大きさ八寸、径二寸大半〔訳注:二寸と三分の二〕、長さ二尺八寸、穀九升三合八分合の一〔訳注:三合と八分の一〕を受けます。


肛門は車釭〔訳注:放射状の車輪のスポーク〕の形に似ており、糞滓を疏去する門です。


この難では臓腑の尺寸を説いており、二十三難では経脉の尺寸について語っています。両難で述べられていることによって、内外の度が完全に示されています。



一元流
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