第四七難の検討



例の徐霊胎も含めて、ほとんどの書物は、この四七難に対して異議を唱えておりません。ただ、張景岳だけがその《類経》において、批判を試みておりますので、それを押さえておきましょう。この難と対応していると思える記載は、《霊枢・邪気臓腑病形》にあります。

『 黄帝が岐伯に聞いて言われました。顔と身体とは骨に属し筋に連なり、ともに血気が合しているものです。大地も凍るような寒い時期に、さらに厳しい寒さとなった時、手足は凍えて動きにくくなるのに、顔は露出していても大丈夫なのはどうしてなのでしょうか?

岐伯は答えて言いました。十二経脉と三六五絡脉の血気はすべて顔に上り空竅に走ります。その精陽の気は上って目に走りよく見えるようにします。その別の気は耳に走りよく聞こえるようにします。その宗気は鼻に出てよく匂いをかぎ分けられるようにします。その濁気〔伴注:穀気〕は胃に出て唇や舌に走り味を噛み分けられるようにします。その気の津液はすべて上って顔を薫蒸しますので、皮膚はさらに厚くその肉は堅くなりますから、〔注:外気の寒さも〕これに勝つことができないのです。 』








この《霊枢》の言葉に対する考察として張景岳は《難経》四十七難を引用して考察しています。

『愚按:本篇〔伴注:《霊枢・邪気臓腑病形》〕で述べられているところの、顔は寒に耐えるという解説には、元来、陰陽の区分というものはありません。

四十七難で言われていることに関して考えて見ましょう。「顔面だけが寒に耐えることができるのはどうしてなのでしょうか。 然なり。人の頭は諸陽の会です。諸陰の脉は、皆な頚胸中に至って還ります。ただ諸陽の脉だけが、皆な上って頭に至ります。 ですから顔面は寒に耐えることができるのです。 」


この説にはいささか疑問があります。頭が諸陽の会であるという部分は納得できますが、陰は頭に上らないという部分は間違いです。そもそも陰陽の升降ということをよく考えてみる場合に、地が天に交わらず蔵して頭に上らないということがあるでしょうか?

本篇〔伴注:《霊枢・邪気臓腑病形》〕でも言われている通り、諸陽の会はすべて顔にあります。顔が陽の集まる場所であるからと言って、陰がないというのは間違いです。《素問・陰陽別論》に、「三陽は頭にあり、三陰は手にあります。」とあります。よく言われている「陽明は表を主る」という言葉は「人迎」のことを指しており、「太陰は裏を主る」という言葉は「脉口」のことを指しているものです。これもまた、陰が頭に上らないということを述べているものではありません。

また《霊枢・本輸篇》では、頚項における諸経の並び方が述べられており、ただ六陽のことを述べて陰について述べられていないのは、単に諸陽の順番を述べているだけのものです。これは、《傷寒論》で足の経脉についてだけ述べ、手の経脉に関してはその意味をそこに内包させている〔伴注:直接には触れられていない〕ようなものです。これもまた陰が〔伴注:頭に行かない〕ということを述べているものではありません。《難経》が言わんとするところは、この「数」に根拠があるようですが、その深い意味は考えられていないのではないかと思われます。 』


このように、張景岳は、その正確な《黄帝内経》解釈に基づいて、《難経》四七難に対して批判を加えております。陰陽の和合、ということが、人身を存在させている基礎であるという発想が、基本的にそこにはあって、そのゆえに、陽だけが頭に上り陰は上らないという考え方は間違いであると、そのように語っているわけですね。







《難経》でも陰陽が和合した状態である一元の気が流行しているということが、人身把握の第一歩、基礎のまた基礎であるということは、これまで繰り返し述べられてきたところです。しかしこの四七難ではそれをさらに一歩進め、陰陽の偏在について述べられていると考えることができるのではないでしょうか。顔面を象徴的に出していますが、これはさまざまに発想の幅を広げていくことによって、大きな人身把握への道〔注:気の偏在という考え方への道〕を開いてくれるでしょう。

一元の気といいますけれども、そこには、さまざまな陰翳、生命の姿が存在します。その大きな陰翳の中に生命現象というものは存在しうるのです。大きくは大自然界の運行であり、臨床家にとっては人体における生命の動きです。

一元の気という時に真空な宇宙を思い浮かべるといった観念論は、生命そのものを捉える時には使える武器にはなりません。生命が充満し爆発しそうになっている一元の生命、一元の気のありようというものこそが、生命を把えて臨床に使うために必要な概念となるのです。その躍動する生命のありようを、まさに生命の真っ只中に立って凝視しつづけることによって成立している医学が東洋医学であることを理解するなら、東洋医学を基礎としたこれからの生命医学の地平というものが大きく開けてくることと思います。

生命のその野蛮な陰翳の中で明確に説き起こすことができる生命エネルギーの偏在のありさま、それがここで描かれている『顔面は寒に耐える』ということの本質的な意味であると私は理解しております。









2001年9月16日 日曜   BY 六妖會




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