第 四十九 難

第十九難




四十九難に曰く。正経が自ら病むものがあり、五邪によって傷られる所があります。どのようにしてこれを区別するのでしょうか。


正経が自ら病むということは、その一経に留まって他経を傷ることがないということであり、留まって移ることがないということから考えると、これは陰の象です。五邪によって傷られる所のものは流動して定まることがない状態であり、これが諸経を傷るということは、陽の象です。病症というものは非常に多いものですけれども、陰陽という原則によって貫かれています。また陰病は遅緩であり、陽病は暴速ですから、陰病の多くは虚であり、陽病の多くは実です。けれども虚実は常態がないものですから、陰が凝結する時は実となり、陽が散ずる時は虚となります。固定したものと考えて執われないようにしてください。






然なり。憂愁思慮するときは心を傷ります。


「憂」とは沈思して解けない状態です、「愁」とは感嗟〔訳注:嘆き〕によって気が傷られたものです、「思」とは心に依存する所があって平生ではない状態です、「慮」とは心に憶測する所があって静ではない状態です。憂愁すると心は楽しまず、思慮すると心は和しません、これによって心に病が生じます。また君子は琴瑟〔訳注:琴と瑟、ともに琴の一種〕が徹(とお)らない場合〔訳注:物事が自分の思い通りにいかない場合〕は、和楽の徳を養うことによって憂慮による労が起こらないようにします。聖人には心疾がない理由がこれです。


問いて曰く。命門は諸神精の舎る所です。神の病がどうして命門に繋がらないのでしょうか。

答えて曰く。命門は神の燕所する〔訳注:くつろいで自室に休む〕場所であり、一念発起する以前の場所です。神が動ずるときは心に出ることによってさまざまな出来事に対応していきます。ですから情が動ずるときは先ず心につくことになります。この情とは、いわゆる五志七情の火のことです。五臓の別はありますけれども、皆な心火を動ずるものです。


問いて曰く。七情の中で、憂思の二種類だけを挙げているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。憂愁は肺金に属します、思慮は脾土に属します。金土の性は重鎮ですから憂思を七情の主とし、もっとも心に凝滞しやすいものと考えているのです。喜怒悲恐は水木火に属し、動じていくだけで凝滞することはありません。この喜怒悲によって傷られると、その気は上散して津液が収まらなくなりますので、泣涕が出ます。驚恐によって傷られると気が下消しますので、泣涕は出ずに人によっては冷汗が出るだけです。憂慮だけが気を凝滞させるので津液が秘されて人によっては脹痛等の病を生ずることになります。






形が寒えるものが冷飲すれば肺を傷ります。


形が寒えるものとは、天気が外を冒したものです。冷飲するとは地味が内を犯したものです。肺は気の臓ですから、陰寒に触れるとその陽気が先ず傷られます。また気の根は命門にありますけれども、気が発揚するときは表に浮かびますので、先ず肺につくことになります。窮陰の地〔訳注:陰が極まっている場所〕が天寒に出会うと、鏞鐘〔訳注:大きな鐘〕や碑碣〔訳注:石碑〕であっても破砕される危険がありますので、これが金を損なう徴であるということを知らなければなりません。


問いて曰く。寒が直接裏に入って肝を侵さないのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。生命があるものは陽であり、寒は陰です。肺は秋に旺になり陽が敗れる初めての時期です、ですから寒冷によって肺が傷られると言う場合、その暴寒が生命あるものの陽を非常に速く敗りますので、その虚している所を直接衝くわけです。臓や経脉を選択して敗ることが、どうしてありえましょう。


問いて曰く。形が寒えているものが肺を傷られやすいということは、まさにその通りであろうかと思います。けれども冷飲するときには胃を傷られるのではないでしょうか。それなのに肺に関わるとしているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。寒飲すると冷気が胸膈に徹るために先ず肺を傷ります。胃土は、季夏における極熱の気を受けて水穀の海となっていますから、寒冷によく耐えることができ、急に傷られることはないのです。






恚怒の気が逆上して下らないときは肝を傷ります。


「恚」とは抑遏して内に逆したものであり、「怒」は憤発して外に逆したものです、ともに気の逆上したものです。このような逆境になると、肝木が震揺することによって春和の気を亡ぼします。ですから先ず肝を傷るのです。


問いて曰く。怒は五志の一つですから心を傷るべきなのではないでしょうか。にもかかわらず肝を傷るのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。情志は皆な「思」です。怒は思を剋しますので、怒るときは情思が消散し心脾に関与しなくなります。ですから「怒」は情であって情とは異なり、胆は腑であって腑とは異なっています、ともに奇恒の意味があります。






飲食労倦するときは脾を傷ります。


「飲」とは湯水のことであり陽に属します、「食」とは穀肉のことであり陰に属します、この二者は外から内に入ったものです。「労」とは勤苦して〔訳注:働きすぎることによって〕身体が疲れたものです、「倦」とは委棄して〔訳注:全てが嫌になって〕心が厭わしくなってものです、この二者は体から心に入ったものです。飲食は脾に入ります、肢体は脾に属しますので先ず脾につくわけです。飲食や動作が無理なく調和がとれていれば健康です、その節度を失うときは病となります。人の生には他に問題などありません。飲食はその身体を養い、動作はその用〔訳注:機能〕を達するだけです。人は土から生じますので、土の用がもっとも重要になります。また人は裸虫の長であり、五虫の中でもまた土に属するものです。






湿地に久坐し、強力して水に入ると腎を傷ります。


「湿地に久坐し」〔訳注:長期にわたって湿地に坐し〕ているということは、静にしていて傷られたものです。沢や畦や池の上・低く窪んだ場所や北陰の場所を湿地とします。また、部屋が大きければ陰気が多くなりますので四肢厥冷しますし、空屋や土窖(どこう)〔訳注:あなぐら〕などの無人の場所には陰気が集まりますから正陽が害されて、その気に触れることによって死ぬものまで出ることがありますので、気を付けなければなりません。座っているとき人は静にしていますので陰を生じます、さらに長時間座っていると陰が凝結して湿を生じます、湿地の中に長時間座っているということであればなおさらです〔訳注:陰湿を生じることになります〕。強力して〔訳注:荷物運びなどの肉体労働をしながら〕水に入るものは動じて傷られたものです。腎は作強の官ですから、強力すると骨髄が労し〔訳注:疲れ〕ます。もし水を浴び水涯を渉ると〔訳注:水の端を歩くと〕同じ気が求めあいますので、水湿が骨髄から腎に入ります。また腎虚であったり腎が弱い人が陰晦〔訳注:曇って暗い空〕や霖雨〔訳注:長雨〕に会ったり、急いで歩いて霧露に触れたり、汗が出て衣服が冷えたり、水泉を愛翫し過ぎると〔訳注:水浴びをし過ぎると〕、その陰湿が遂には腎に入ることになります。


問いて曰く。寒湿をあげて風暑をあげていないのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。正経が自ら病んで一経に留まっているものをあげているので、寒湿の陰をあげて、風暑の陽をあげていないのです。


問いて曰く。心肝では内情をあげ、肺腎では外邪をあげているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。心肝は陽とします、情は動くことによって病となります。これは春夏の陽の時に、人気が動いて形が和するという意を表わしています。肺腎は陰とします、形が損なわれることによって病となります。これは秋冬の陰の時に、人気が収斂して形が枯れるという意を表わしています。脾は、情と形とを兼ねて病みます、四季に旺ずるためです。






これは正経が自ら病んだものです。


正経が自ら病んだものは一経だけが病んでいますので、形と気の区別があります。五邪は他経に客しますので情思による影響はありません。






何を五邪による病と言うのでしょうか。


諸病は千変万化しますが、五臓以外に出ることはありません、ですから諸邪百端〔訳注:千差万別の邪〕もこれを五邪に集約させているのです。






然なり。中風、傷暑、飲食労倦、傷寒、中湿による病を言います。


「風」とは天の気が抑遏されて回旋したものです、ですから人の気も鬱伏すると肝木が震揺するために風が起こります。外風に触れると悪風・脊強・頭痛等の症状を呈します、発散法によって治療します。内風が動じたときは癱瘓〔訳注:四肢が痺れて動かなくなる病気〕・筋萎・出血等の症状を呈します、補収法によって治療します。


「暑」とは天の気が升浮したものですから、陽は陰から離れてその権〔訳注:力〕を放ちます、ですから人の気も浮動すると陰がこれを和することができなくなり、心火が独り炎上して熱を生じます。外熱するときは面が垢づき・汗が多く・疹斑する等の症状を呈します、清解法によって治療します。内熱するときは煩悶・燥渇・動悸等の症状を呈します、滋降法によって治療します。


脾は中を主りますので、「飲食労倦」の病は正経が自ら病むものと五邪によって傷られて病むものとの両方に通じています。もし飲食によって急に傷られたときは吐瀉・腹痛等の症状を呈します、消導法によって治療します。飲食が長期にわたって留滞すると積聚・痰飲等の症状を呈します、解散法によって治療します。労倦外傷によるときは肢軟・言微等の症状を呈します。補気法によって治療します。労倦内傷によるときは健忘・不寐等の症状を呈します、滋血法によて治療します。


「寒」とは天の気が(しゅうきん)してくると〔訳注:斂緊:収斂し引き締まっていくると〕陽が逋鼠(ほそ)する〔訳注:逃げ隠れする〕ために陰冷が行きわたったものです、ですから人の気も沈固なときには陽が蝸縮して陰寒が生じます。外寒するときは惨寒・振慄等の症状を呈します、温散法によって治療します。内寒するときは痞塞・沈固等の症状を呈します、温解法によって治療します。


「湿」とは天の気が晦黯となり〔訳注:暗くなり〕凝濁したものです、ですから人の気も重濁なときは水気が行らなくなり湿が生じます。外湿のものは腫痛重著等の症状を呈します、汗滲法によって水を行らします。内湿のものは精濁・溏泄等の症状を呈します、分利法によって治療します。


五邪には、内からのものか外からのものかといった区別がありますけれども、外邪であってもまた内に著き、内邪であっても外を冒し、また内外を交代々々に攻めるときもありまうから、そこに一定の法則というものはありません。また風湿は物に触れることによってその形を現わしますので、これを「中(あた)る」と言います。寒湿は気が盛な状態で形には現われませんので、これを「傷る」と言います。「中る」と「傷る」とは同じような意味ですが、このような形と気の区別があります。これはこの《難経》の字法です。






これを五邪と言います。


上文を結んでいます。病証というものは万緒〔訳注:千変万化〕にわたっていますが、これを要約すると五邪になります。たとえば目の病で、胞白〔訳注:白目〕が牽引して痒く涙が出るものは風です、目瞞して明らかでなく〔訳注:目がよく見えず〕悪寒するものは寒です、胞が硬く紅く腫れて刺痛するものは熱です、体が重く羞明して雲霧のようなものが見えたり急に見えなくなったりするものは湿です、飲食は雀目〔訳注:夜盲〕や倒睫〔訳注:逆まつげ〕を生じ、労倦は緊濇の内障〔訳注:白内障・緑内障など〕を発します、また他の四邪と労食の邪気とを兼ねるものもあります。百病はこれを例とすることによって理解していくことができます。






心病を例とした場合、どのようにして中風の邪に冒されたと判断するのでしょうか。

然なり。その色は赤くなります。どうしてかというと、肝は色を主りますが、自身に入ると青となり、心に入ると赤となり、脾に入ると黄となり、肺に入ると白となり、腎に入ると黒となります。肝は心の邪となりますので赤色となるということがわかります。その病状は、身熱し、脇下満痛します、その脉状は浮大で弦となります。


これは心を例としてあげています。諸病の多くは心との関わりで熱証となるためです。仏教でいう、心が空寂であれば諸病止み、心鼓が四大〔訳注:仏典においていっさいの物質の本とされる地・水・火・風〕を動ずると諸病起こる、とあるのがこれです。「風」は陽がまさに発しようとしている状態で陰がまだ閉じていますので、回旋します。「色」は人身の陽で顔面に上りますが、皮膚がまだこれをくるんでおり、声や臭いのように発泄してはいません。そのため、風が動ずると色が出るのです。もし肝が中風の病となると、その色は青く・脉状は牢で長・脇痛して四肢満閉し・淋溲し・便が出難くなります。もし脾が中風の病となると、その色は黄色く・脉状は緩で弦長・四肢は怠惰となり・腹胸が満悶します。もし肺が中風の病となると、その色は白く・脉状は浮弦で濇・洒淅寒熱し・胸脇が満痛します。もし腎が中風の病となると、その色は黒く・脉状は沈濡で弦・脇肋や小腹部が満痛します。


そもそも中風の症は色を主とすべきです、諸色が皆な抑鬱によって出てくるからです。ですから耻羞によって〔訳注:恥じらって〕顔面が赤くなるのは心陽の鬱によります、驚恐によって顔面が青くなるものは肝が動じたためです、脾が滞ることによって顔色が黄色くなるものは中気が升ろうとして抑えられるからです、眠った後に色が白くなるものは肺気が浮かぼうとしてまだ沈んでいる状態だからです、鬱悶しているために色が黯い〔訳注:黒い〕ものは清気が撓(たわ)んで〔訳注:乱れて〕いるからです。また、大小便の色が赤いのは熱閉によります、大小便の色が青いものは風冷が欝しているためです。また赤子〔訳注:赤ちゃん〕の赤は胞宮の色であり、皮膚本来の色がまだ現われていない状態です。これが、抑遏されるときには色が生ずるということの意味です。声色臭味の説に関しては三十四難の下を考えてください。この難とともに互いに発明する〔訳注:明確にされている〕ところがあります。






どのようにして中暑の邪に冒されたと判断するのでしょうか。

然なり。臭いを悪むようになります。どうしてかというと、心は臭いを主りますので、自身に入ると焦臭となり、脾に入ると香臭となり、肝に入ると臊臭となり、腎に入ると腐臭となり、肺に入ると腥臭となります。ですから心病で暑に傷られると臭いを悪むようになるということがわかります。その病は、身熱して煩心痛します、その脉状は浮大で散となります。


「暑」とは陽が浮散して収まらなくなったものです、「臭い」とは熱が薫発して消散するものです、ですから人身に熱があるときは、心が臭いをもちます。また五臓の臭熱は皆な鼻口に泄れます。もし気が下陥していると下に泄れて胞屁〔訳注:放屁のことか〕となります。また飲食の滞りによってもまた気泄〔訳注:げっぷのことか〕をします。人の臭いが禽獣より勝っているのは、日常的に火食をするためです。口の焦・陰の臊・血の腥・便の腐・身の香などは、皆な熱が薫散しているものです。香臭がある物は、その薫蒸が長期にわたると自然にその臭いが消えていくものです。これは臭いというものが火に属していて、消散する性質があるためです。炭火が長期にわたっては燃え続けることがないことから、火の性が耗散するものであるということを理解することができます。


問いて曰く。血が心に属しているのにその臭いが腥(なまぐさ)いのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。生命があるものは気が表われているものです。諸気は金に属し腥がありますので、刃物に触れると気が先ず敗られて血が出ます。気は血を体としますので、血中の余気が腥臭を出すわけです。そのため肺が擾動すると腥(なまぐさ)くなります。走喘の人〔訳注:走った後呼吸が荒くなっている人〕には腥気がすることから知ることができます。俗に汗臭いというものは、皮膚から気が泄れて腥臭を発しているものです。汗もまた心に属しますけれども、焦臭ではありません。大便に腥臭がある場合、長期にわたって泄瀉しているために大腸の気が敗られたものです。この腥臭には、人獣鳥魚それぞれに違いがあります。俗に獣皮の臭いを皮臭と言っているのは獣腥です、鮑肆〔訳注:塩漬けや干物を売る店〕の臭いは魚腥です。思うのですが、生命があるものが死ぬときには、その余気が身体に留まっているため腥臭を発します。けれども、死んでから日が経つと、その気が身体から去りますので、身体は腐乱し壊れ、腐臭を発します。そもそも神が身体から離れるときには幽冥の霊となるため、中気の芳香に化します、いわゆる照明薫蒿と呼ばれるものがこれです。






どのようにして飲食労倦によるものであると判断するのでしょうか。

然なり。苦味を好むことによってです。虚証の人は食欲がありませんが、実証の人は食欲があります。どうしてかというと、脾は味を主りますので、肝に入ると酸となり、心に入ると苦となり、肺に入ると辛となり、腎に入ると鹹となり、自身に入ると甘となります。ですから脾邪が心に入ると苦味を好むことになるということがわかります。その病は、身熱して体が重く・臥すことを嗜み・四肢が収まらなくなります、その脉状は浮大で緩です。


飲食という外物が内に入ると、五味となってそれぞれ五臓に走ります、また志気というものは内に立てられ、外に出ることによって動作が四体に及ぶようになります、これらが共にその節度を保てなくなると飲食傷・労倦傷となるわけです。思うのですが、飲食が適当でなければ五臓はそのために疲れますので、飲食の不摂生によって労倦傷となることもありますし、また動作が過剰になると中気がこのために困窮して味覚を失いますので、労倦によって飲食傷となることもあります。この両者は中気を傷るということにおいて同じ意味をもっています。ですから経文では一緒にして、味を好み四肢が収まらなくなると言っているのです。心が労熱すると苦を好み、肝が労煩すると酸を好むといった類です。中気が虚すると運化することができなくなり食欲がなくなりますが、この口が淡くなり味覚を失うといった症状は、中和の正気が傷られたために本来であれば好む所を悪むようになるためです。中気が実するときはよく消化することができますので、食欲があります。その人が甜滑の味を好んだり辛辣の味を好んだりするといった症状を呈するのは、このような味を入れることによってその病を癒そうとしているためです。


問いて曰く。労倦は虚です。ここで実と言っているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。労倦には虚妄によるものと鬱実によるものとの別があります。たとえば、労動過多によって火を生じて口が苦くなるものは虚であり、憂慮過多によって欝熱して口が苦くなるものは実であり、飲食過多によって積熱して口が苦くなるものは実であり、不食〔訳注:食事を摂らないこと〕によって津が燥いて口が苦くなるものは虚です。ですから〔訳注:労倦の病というものが〕虚実どちらかに一定しているというわけではありません。虚中の実であるか実中の虚であるかということを審らかに診察していかなければなりません。






どのようにして傷寒によるものであると判断するのでしょうか。

然なり。譫言し妄語することによります。どうしてかというと、肺は声を主ります、肝に入ると呼となり、心に入ると言となり、脾に入ると歌となり、腎に入ると呻となり、自身に入ると哭となります。ですから肺邪が心に入ると譫言し妄語するということがわかります。その病は、身熱し・洒々として悪寒し・甚だしいときは喘咳します、その脉状は浮大で濇です。


「寒」は天気が急迫したものです。「声」もまた気が迫切して出たものです。琴瑟(きんひつ)〔訳注:琴の一種〕鐘鼓〔訳注:鐘や太鼓〕なども、全て弾拊〔訳注:打つこと〕によって迫るものです。そもそも迫とは急縮するということで、寒縮するということとその意味は同じです。ですから諸邪が迫切するということは、寒によって塞がれて声を発するということと同じような状態になります。寒邪が心に迫ると、心火が撹乱されて神がその舎を守ることができなくなりますので妄言し妄動します。邪が肝に迫ると叫呼したり風狂し瞋走します。邪が脾に迫ると床に臥して歌ったり舞踏をしているような状態となります。邪が腎に迫ると呻吟が止まらなくなったり、躁跳して席にじっとしていることができなくなります。邪が肺に迫ると悲哭します。また婦人には臓躁というものがあり、これもまた躁急する状態のものです。これに加えて呵咄(かとつ)呼爾〔訳注:大声で叱るように人を呼びつけ〕〔訳注:脅し〕・喜嘔するものは、怒・喜・驚・恐が迫るために叫呼するものです。喜嘔とは失喜して〔訳注:喜びを失って〕声を発するものです。語話して阿唯咿唔と講説する〔訳注:ぽつぽつと理屈っぽく話す〕ものは、交遊の授受が迫るために言笑するものです。鼓節嬥囃哄堂喧嘩する〔訳注:笑ったりはやしたてたりしながら大声で話す〕ものは、歓情が迫って歌楽するものです。嗟嘆嗚咽鄭声哀音する〔訳注:くどくどと悲しい感じで哀願するように話す〕ものは、感慨が迫って悲哭するものです。沈吟長嘯輿樗喝采する〔訳注:沈んだ調子で呻くように話す〕ものは、情志が迫って努呻するものです。諸声も迫切によらないものはありません。






どのようにして中湿によるものであると判断するのでしょうか。

然なり。よく発汗し止まらないということによります。どうしてかというと、腎は液を主ります、肝に入ると泣となり、心に入ると汗となり、脾に入ると涎となり、肺に入ると涕となり、自身に入ると唾となります。ですから腎邪が心に入ると汗が出て止まらなくなるということがわかります。その病は、身熱して小腹が痛み・足脛が寒えて逆します、その脉状は沈濡で大です。


湿は陰が集まることによって生ずるものであり、液は陰気が水に化したものです、人身においてもまた陰が集まると水液が生じます。ですから暑さによって発汗するのは、夏熱が陽を傷って陰が溢れるものです。また人身の陽が循らないときは、陰もまた循ることができませんので集まって溢れ出します。これは陰がその形を現わしたものです。自汗は陽虚であり、寝汗は内熱であり、愧汗〔訳注:恥ずかしさのあまり汗をかくこと〕は陽抑であり、労汗は動熱です、皆な心陽が動ずることによって陰が(うご)かされたものです。なぜ泣くか〔訳注:涙を流すか〕というと、悲しみによって陰気が生じて発生の陽を消したためです、涕は上陽が沈降して陰が溢れたものであり泣〔訳注:涙〕とともに現われます。風寒による清涕は肺が閉じて陰が集まったためです、老人や虚人にもまた肺が薄くなったために涕が出るものがあります、ですから涕はただ風寒だけによるものではありません。老人が喜びのあまり泣や涕が出るのは、喜ぶことによって気が消散して陰が集まるためです、少壮で気実の人が喜ぶときは気が散じますけれどもそれが消えることはありませんので、陰が集ることはありません。老人が悲しんでも泣や涕を流さない理由は、悲しみのあまり肺葉が焦げて陰気が消えるからです、少壮の人が悲しむと陽気が消えて陰が集まりますので、泣や涕が出るのです。老人や小児がいつも涎を流しているのは、陽が充実していないために陰が胃に集まっているためです。危急の病で涎沫を吐く人があるのは、陽が亡んで陰が溢れ出すからです。唾は元陽が衰えて陰が集まったときに多く出ます。虫病で唾が多いのは、水気が腐濁することによって虫が生ずるからです、腐濁するということは水中の陽が衰えたために陰が集まった状態です。諸虫病は皆な陰湿が凝ったために起こるものです。人に唾を吐きかけるということは、自分の陰穢で人に汗をかかせようとするものです。






これが五邪の法です。


五邪の軌則〔訳注:法則〕は真に百病の機括〔訳注:集約された基準〕となります。思うのですが、この《難経》の経文にはもともと薬味に関する説明はありませんが、このような色・臭・味・液について論じている部分から推測していくと、薬性の玄旨についても窺い知ることができます。諸薬が温・涼・寒・熱の性質を具えているのは、全てここに気が存在しているということに基づいて活用されているものです。色は木に属し、味は土に属します、土はその気を木を通じて栄落の形で現わし、木はその質を土に含まれている生化の気に託しています、ですから土と木とは万物の体となります。このゆえに諸薬は色と味とを具えているわけです。液と臭とは水火が生ずるものです、水火は気として土木の中に寓します、ですから水火は万物の気であると言うことができます。気は陽であり散じ易いため、諸薬にはその液臭があるものとないものとがあります。また長時間経過すると色臭味液全てが変化するということは、自然の道理です。たとえば丹砂の色の赤は心に入り、味の甘は心を養い、気の寒は熱を除き、質の重は鎮墜します、心虚に宜しいわけです。地黄の色の黒は腎に入り、味の甘は腎を養い、質の潤は枯を滋します、腎労に宜しいわけです。藿香の芳は胃を悦ばし、色の青と質の軽さによって外達させます。茱萸の臊は肝に走り、味の苦は滞を破ります。また生物の性質として、鶏の呼は木に属し、鳩の拙〔訳注:粗末な鳴き声のことか〕は陰に属すといった具合です。百薬全てについてこのように推測していくなら、思い半ばを過ぎるでしょう。この難は、三十四難と併せて見てください。



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