五九難の検討



狂癲の病に関しては、《霊枢・癲狂》に詳述されています。二十難では伏匿の脉状の極端なものとしてこれを取り上げ、五十九難では狂癲という疾病の解釈をして最後にその脉状を取り上げています。徐霊胎はこの難を『一を掲げて万を漏らすもの』であると批判しています。これは、《霊枢》に比して、五九難の記載があまりにも単純化されているためです。

狂癲に関する詳細は、現代中医学でまとめられている文献に譲るとして、ここでは、最後の段の、『その脉状は、三部の陰陽ともに盛なものがこれです。』という部分を検討していきます。これは二十難の『重陽のものは狂となり、重陰のものは癲となり』という記述とも相互に関連してきます。







【不明瞭なもの】



滑伯仁は『陰脉がともに盛ん』『陽脉がともに盛ん』なものであり、その重陽重陰が極まると陰脱陽脱となる、と述べています。

この陰脉陽脉の意味は何なのでしょうか。浮位沈位なのか、寸位尺位の脉位のことなのか、浮脉沈脉なのか、浮滑長・沈渋短の脉状のことなのか判然としません。

ことに最後の沈渋短の陰脉を意味していると解釈する場合、これが盛んであるというのは言葉の矛盾なのではないでしょうか。けれども、徐霊胎も葉霖も、滑伯仁と同じ語り口です。







【広岡蘇仙】



広岡蘇仙は二十難の注では『重陽とは、陽部に陽脉を現わすもので、寸位の脉状が浮滑で長のもの』であり『重陰とは、陰部に陰脉を現わすもので、尺位の脉状が沈渋で短のもの』であると解説しています。また、五九難の注では、『「三部」とはいわゆる寸関尺の三部のことであり、「陰陽」とはいわゆる浮沈のことです。重陽の脉状は陽が盛実であり、重陰の脉状は陰が盛実です。』と解説しています。

つまり、彼は二十難の解説ではその陽部陰部とは、寸位尺位の意味であり、重陽重陰とは、それぞれ、寸位尺位の脉状がそれぞれ浮滑長・沈渋短を示しているものであると述べ、五九難の注では、浮位沈位の脉状が陰陽それぞれに盛実であると述べているわけです。

彼が五九難の注の最後に『二十難ではすでに重陰重陽の脉状について説明しています。この難でともに盛と言っているのは、二十難の遺旨〔訳注:言い残した内容〕をここで語っているのです。』と述べていますから、彼はこれを合わせて考えていたということですね。







【凌耀星】



凌耀星は、二十難の注で、《易》の乾卦に『九三重剛であれば中ならず』疏に『正義には、上下ともに陽であるため重剛という』とあることから、『尺寸の陰陽の部位にともに陽脉が表れるものを重陽とし、ともに陰脉が表れるものを重陰とします。』と述べ、さらに『尺寸すべて陽のものを重陽といい、・・・・・・(中略)・・・・・・尺寸すべて陰のものを重陰といいます。』と黄竹齊の言を引用して結語としています。

広岡蘇仙が寸位の脉状が浮滑長であるものが重陽・尺位の脉状が沈渋短であるものが重陰という意味であるとしていたのに対して、凌耀星は寸尺すべてが陽脉を呈するものが重陽の意味であるとし、寸尺すべてが陰脉を呈するものが重陰の意味であるとしているわけです。

しかし、五九難の注では、『「三部」というのは寸関尺三部の脉を指しています。「陰陽」というのは切脈して沈めて取るもの浮かせて取るものを指しています。』と述べています。つまり陰陽とは浮位沈位の意味であるということで、これは広岡蘇仙と同じです。







【現代中医の教科書】



現代の《難経訳釈》は、二十難の注では、重陽というのは、尺位寸位ともに陽脉のもののことであり、重陰というのは尺寸ともに陰脉のもののことであると解釈しています。

これに対し五九難の注では、『寸は陽に属し、尺は陰に属します。狂病の脉状の場合、両寸がともに盛んとなり、癲病の脉状の場合、両尺がともに盛んとなります。』として、これが滑伯仁の言葉の意味であるとしています。滑伯仁の名前を出して権威付けしているんですね。現代中医の《難経校釈》も同じように解説しています。

つまり、三部というのは寸関尺のことであり、陰陽というのは尺位寸位のことであると、言葉を重ねて述べていると解釈しているわけです。

二十難との解釈の違いも明確です。







【本間詳白】



本間詳白は《難経の研究》で、

『五十九難に「其の脉三部陰陽倶に盛なる是なり」とあって狂症は三部共に陽脉が盛であり、癲疾は三部共に陰脉が盛でありと言う意味を示している。・・・・・・(中略)・・・・・・
難経俗解では重陰重陽の重の意味を重視して狂の方は陽に更に陽が重なるのであるから寸の陽部に洪大滑数浮長と言う陽脉の甚しい脉が表れ、癲疾は重陰であるから尺の陰部に微渋沈短の甚しい陰脉が表れるのだと言っている。 此の一説だけを見れば「重陰重陽」の意味が判つきりするが、五十九難の本文から言って「三部共に」と言う説明があるのだから寸関尺全部、陽は或いは陰の前説に合わせた方が正しいと思う。』(102ページ)
と解説しています。

しかし、御自分でもきちんと訳されているとおり、五九難には『其の脉三部陰陽倶に』となっているわけで、この陰陽という文言を勝手に省くことは許されません。みんなここで悩んでいるんですからねぇ。


それはともかく彼は、狂は三部の脉すべてが浮滑長の脉状であるものが陽脉が盛んな状態であり、癲は三部の脉すべてが沈渋短の脉状であるものが陰脉が盛んな脉状であると定義しているわけです。

滑伯仁のところで述べましたが、沈渋短という虚脉が盛んであるというのはいかなるものなのでしょうか?言葉の矛盾であるような気がしますが。

この問題に対して彼は、五十九難で解説しています。『狂は陽病であって寸関尺の三部は皆陽脉(浮滑長)が盛んである。癲は陰病であって寸関尺の三部が皆陰脉(沈渋短)が盛んである。』(232頁)と二十難の説を繰り返した後、『此の盛んとは一方的であって他の脉を入れないの意である。』(232頁)と。

しかし、陰脉という弱っている脉状を呈しているものが、他の強い脉状の影響を受けないということがあるでしょうか。理論としては納得はできるのですが、実際的ではないような感じがします。

そしてさらに同じ場所で彼は繰り返します。『二十難の末文に「重陽の者は狂し、重陰の者は癲す」とあるが、重陽は寸関尺三部に陽脉が表れる事であり、重陰は同じく三部に陰脉が表れるのであると解するより外ない。難経俗解の解釈の如く寸部に陽脉の甚しいものが表れるのが重陽であり、尺部に陰脉の甚しいものが表れるのが重陰であるとすると前後の意味が混乱して来るおそれがある。』と。(232頁)

『前後の意味が混乱して来る』というのは、二十難の解説のところで『五十九難の本文から言って「三部共に」と言う説明があるのだから寸関尺全部、陽は或いは陰の前説に合わせた方が正しいと思う。』と述べているものを言っているのでしょう。しかしその説明方法がおかしいということに関しては、すでにお話しました。







【まとめ】



それにしても、二十難における重陽重陰の脉状の解説と、五九難における狂癲の脉状の解説とが、多くの解説者において異なっているのはどのように判断すればいいのでしょうか。広岡蘇仙の言うように、五九難の『三部の陰陽ともに盛なもの』という言葉を扁鵲の遺旨として二十難に重ね合わせて考えるべきなのでしょうか。

私が拘わるところは、「盛ん」という文言です。陰が盛んであれば陰に生命力充実の脉状が表れるはずだし、陽が盛んであれば陽に生命力充実の脉状が表れるはずです。

つまり、陰の生命力の充実を示す脉状は沈渋短の脉状ではなく、胃の気のある脉状なのであり、陽の生命力の充実を示す脉状は浮滑実の脉状ではなく、やはり胃の気のある脉状なのであるということです。







そもそも二十難における伏匿の脉状とは、沈渋短あるいは浮滑長の脉状がその分を弁えずに陰位陽位を侵しているもので、癲狂の脉状とは二十難の徐霊胎の解釈によれば、それがその部位を支配しさらに陰陽が極まって転化して、陽位に浮滑長の脉状が表れ陰位に沈渋短の脉状が表れているものであるということになります。

しかし、実際的な病症説明(五九難)によればそれが、三部の陰陽ともに盛んな脉状であるということになっていきます。ここに矛盾があると思うわけです。







ただ、実際的な病理としては、《中医内科治療学》〈冷方南 主編:上海科学技術出版社:河南科学技術出版社:一九八七年刊〉によれば、癲証には、「痰気郁結」「心経蓄熱」「心血失養」「心脾両虚」「腎気虚損」などがあげられており、また狂証には「痰火上擾」「腸胃痰火」「気滞血瘀」「大驚によるもの」などが挙げられていますから、まぁ、一概に難経五九難に拘わるのもどうかとは思いますけれどもねぇ。





2003年4月13日 日曜   BY 六妖會




一元流
難経研究室 前ページ 次ページ 文字鏡のお部屋へ