第 六十 難

第六十難




六十難に曰く、頭心の病には、厥痛と真痛とがありますが、これはどのような意味なのでしょうか。


「頭心」とは胸より上のことであり上焦が主る場所です。頭は諸陽の会であり、心は諸気の会であり、ともに純陽の存在する場所ですから、邪が無理に犯すことはできません。もし邪がこの部位に直接入ると、真陽が敗れます。この難の真痛とは上焦の脱亡について言っているものであり、前難の狂癲とは上焦の閉塞について語ったものです。






然なり。手の三陽の脉が風寒を受け、伏留して去らない場合は、厥頭痛と名づけます。入って脳に連在する場合は、真頭痛と名づけます。


手の三陽は、心肺が主る場所です。心肺は清陽のある場所であり、もし賊風渡寒の邪が清陽を犯すと、血気が頭に集まって通行できなくなりますので痛みが出、血気が上に集まるために厥逆します。脳は頭の内部にあり、髓液を盛る器であり、真陽を養い、九竅を潤します。もし邪が峻烈で真陽に迫るときは、その痛みも我慢ができないほどのものになります。いわゆる、骨髄にあれば司命〔訳注:道教の神〕であってもどうすることもできない、といったものとなるのです。


問いて曰く。頭は手足の三陽の会です、手だけをあげているのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。頭痛は清陽の病ですから、心肺の経脉がこれを主ります。足の三陽の問題で頭痛が起こる場合は、必ず他の症状を兼ねており、陰陽ともに病んでいるものです、足の経脉は濁陰の地から上衝しているからです。ですからただ手の三陽経だけをここではあげているのです。






五臓の気が侵されたものを厥心痛と名づけます、その痛みは心だけにあって非常にきついものです、手足が青くなるものは真心痛と名づけます。


頭痛というときに経脉を中心に考えるのは、風寒が先ず衛栄を侵すからです、心痛というときに臓を中心に考えるのは、諸気が先ず膻中に集まるからです。膻中は心の宮城です、気が集まって閉渋すると厥逆して痛みます。その邪気が峻烈で直接心臓に入って真陽に迫ると、劇しい痛みを感じます。四支は諸陽の本です、ですから陽が敗れると冷えます、冷えるとその色が青くなります、ですから青は冷の名前なのです。






真心痛は旦に発して夕べに死に、夕べに発して旦に死にます。


真痛が発して死ぬまでの間は一昼または一夜だけの僅かに六時〔訳注:十二時間〕の間だけです。これは陰陽の六位を廻ってそのまま亡びるからです。また陽は速く陰は遅いので、人身の陽が亡んでしまうとその死に至るまでの速度は非常に速いものです。これが結びの文です。心痛だけをあげていますが、ここには頭痛も兼ねられて文が結ばれています。後をあげて前を摂する法です。古人は、この結びの文には頭の字が欠けていると言っています。師は、真の字は愆(けん)〔訳注:誤り〕であろうと言われています。


問いて曰く。頭痛は必ず風寒によって起こるものであり、心痛は必ず臓気から起こるものなのでしょうか。

答えて曰く。風寒は上を侵しますから頭痛の原因は風寒によるものが多いものです。臓気は神を侵しますから心痛の原因は臓気によるものが多いものです。けれどもその病変について言うならば、風寒も心を侵すことがあり、臓気もまた頭を侵すことがあります。また風寒と臓気と兼ねたり、湿熱労食がここに絡んで侵したりすることもあります。ですから一つのことに執着して経文全体の意味を見失わないように注意しなければいけません。



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