第 六十五 難

第六十五難




六十五難に曰く。経に、出る所を井とし、入る所を合とするとあります。その理由は何なのでしょうか。


前難では甲木を用いてその配合の変化を明らかにしましたが、ここでは春東を借り出入の常を説明しています。






然なり。出る所を井とします、井は東方の春であり、万物の始生です、ですから出る所を井とすると言うのです。入る所を合とします、合は北方の冬であり、陽気が入蔵します、ですから入る所を合とすると言うのです。


春と冬とは天の時であり、無形の陰陽であって縦に行きます、東と北とは地の位であり、有形の陰陽であって横に列(つら)なります。春という生ずる時期には、一陽が分かれて万類を出します、冬という蔵する時期には、万類が混じって一陽に帰します。また冬至に一陽来復するというのは、別の場所から一つの陽物がやってきて生ずるということではなく、万物が一陽に帰した状態だということを言っているのです。春には万物という言葉を用い、冬には陽気という言葉を用いているわけで、言い得て妙なるものであり、よく陰陽開闔の義を発揮していると言わなければなりません。生発させようとするときは諸井穴を取り、閉収させようとするときは諸合穴を取りますが、これが治法の綱紀となります。さらに子母迎隨等の治療法がありますが、これは治法の條目になります。


問いて曰く。井合出入等の義については、六十八難で詳らかにされています。この難でただ井合だけをあげて論じているのは、贅述している〔訳注:無用の言葉を述べている〕ことにならないのでしょうか。

答えて曰く。これは、簡約にすることによって教える方法です。そもそも治法の要と言えるものは陰陽を出ることはありません、そしてその陰陽とはすなわち補瀉のことです。これを発汗させ・温め・吐かせ・下し、さらには消導させ・滲利し・按蹻し・蒸浴し・焼き鍼をし・灸炳をするといった類は、すべて春気の治法、疏泄させるという陽の治法です。これを補い・清し・渋らし・滋し、さらには安逸にし寡黙にさせて口や目を閉じて念慮を絶つといった類は、すべて冬気の治法、閉密させるという陰の治法です。瀉法には多くの糸口がありますので万物という言葉を用いて語り、補法は一法に帰しますので一気という言葉を用いて語ります。陽気が内に入ることを補とし、陰気が外に出ることを瀉とします。腎の陽気を大切にするとその本を培うことになり、肝の陽気を助けると万物を育てることになります。いわゆる肝には瀉はありますが補はなく、腎には補はありますが瀉はないと言われているのはこの意味です。そもそも春気に従うということは肝を補うということであり、疏泄することによって補となります、また冬気に従うということは腎を補うということであり、閉密することによって補となります。ですから補うということの中には本来、疏泄するか閉密させるかといった区別はないのです。また、時気〔訳注:その時期の気候〕に従うときは補となり、時気に逆するときは瀉となります。さらに、補瀉には常態はなく、時気に逆することもまた補となり順うこともまた瀉になります、用い方によるわけです。仏教でも、薬も病もともに治すということである、大地の全ては薬である、しかし薬もまた人を殺すこともあり人を治すこともある、と言っています。真に理にかなった論であると言えるでしょう。また思うのですが、尺蠖〔訳注:尺取虫〕が屈するのは伸びようとしているからであり、これを噏し〔訳注:収斂させ〕ようとするときは必ずその前にこれを張し〔訳注:拡張させ〕ます〔訳注:《老子》の言葉〕。冬が厳寒であれば春になると発激して穀物がよく育ちます、ですから大雪が降ると豊作の兆しであると考えるわけです。腎が固密であれば生発の気が盛で衰え難いことを表わします、子供が産まれたときにその握り拳が堅く握られていて泄れないときは長生するという言い伝えがあるのは、この事を言っているのです。井合だけをあげているということにはこのように深い思いがあるのです。



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