字句に対するいくつかの解釈





『三焦は原気の別使です。三気を通行させ五臓六腑を経歴させることを主ります。 』とありますが、この「三気」について、《難経鉄鑑》では、『人の身体とは本来一つの気が凝結することによって形成されたものです。この一つの気を主宰するものを原と名づけます。この原気が動きに従ってそれを上中下の三ヶ所に報使するものを三焦と名づけます。』と、ことに拘わった解説はされていません。というか、伝統的な三焦の概念をしっかり把握していることを窺わせ、一元の気の流行という観点から人体を見ていくのであるという、極めて臨床的な発想につながる、名文であるといっていいのではないかと思います。

これを「生気」と置き換えるべきであるとする説(呂広・丹波元堅):「元気。陰陽の気。」(鄭玄):「元気」(太素経)と考えるべきであるとする説があります。けれども、「三焦の気」(紀天錫:金代1175年:《集注難経》・徐霊胎:清代《難経経釋》:南京中医学院《難経解説》)と考えることに対してはそれが「誤りである」と、江戸時代末期の丹波元胤はその《難経疏証》の中で断じています。


どうしてでしょうか。それは、文脈によるものでしょう。すでに『三焦は原気の別使』とまとめているわけですから、その後におかれている『三気』という言葉の内容は、その別使としての原気を解説するものでなければなりません。にもかかわらず、これを「三焦の気」と解釈してしまっては、初めに掲げられている『三焦は原気の別使』という言葉が、無用のものになってしまうからです。

また、そのように考えるならば、この「三」という文字は、ごく初期の段階で写し間違えが起こったのかもしれない、という発想も生れます。たとえば「元」という文字、書き方によっては(墨がかすれて薄くなってくると)「三」という文字と似てきますので。

なお、現代日本の本間詳白による《難経の研究》〈医道の日本社刊〉ではこれを、栄気・衛気・原気の三気であるとしていますが、これは誤りの甚だしいものとして記憶されることでしょう。








さて、六六難は、原穴についての考察が主になされていますが、その『原』とは、『十二経の兪』の尊称であり、『三焦の行く所、気が留止する所』とされています。ここにおいて腎・命門・腎間の動気・三焦・十二経の基本的な枠組みが《難経》においてひとつの完成した形で表われていると言えます。これがいわゆる、『臍下腎間の動気は人の生命であり、十二経の根本です、ですから原と名づけています。』とあるところのものです。

このことに関しては先月やった、景岳の三焦論において、さらに詳細で興味深い説が展開されておりました。繰り返し読んで考えを深めてください。




沢田流三焦論




《難経鉄鑑》六六難に治められている図は、かの沢田健が《難経鉄鑑》を得てこの「十二原の表を見るに及び、多年の疑団が釈然として解け、著しい飛躍をされたので、常に尊重して座右に掲げ朝夕之に対していられた。」ものでありまた、代田文誌氏も「これによって太極治療の真意を会得することが出来た」と述べているものです。〔注:《鍼灸治療基礎学》代田文誌著:医道の日本社刊18ページ〈十二原の表の解説〉より〕

しかし、三谷公器の《解体発蒙》をもとに発展されたと代田文誌氏が語る沢田健氏の三焦論は、中国における章太炎の説と通じ、中西医合作そのもので、これこそ実は沢田氏自身が戒めた考え方ではなかったかという深い疑問を禁じ得ません。すなわちそれは、三焦を上中下の三ヶ所にある体温の発生源とし、それをリンパ管系と結びつけている説です。この論の異様さは、ここまで三焦論を勉強されてきた諸氏には容易に理解されるところでありましょう。


ただ、沢田氏の臨床姿勢として代田氏が語る、『如何なる患者を診られるにも先ず腹診をされた。そうして臍下の原気を窺うを以て腹診の主眼とされた。軽症に見えても臍下の原気の虚しているものは難治であり、重症に見えても臍下の原気の実しているものは治癒し易い。故に、臍下の虚実を窺うことが治療の大方針を定めるのにもっとも大切なのである。而して、この臍下の原気を満たしめることを以て治療の主眼とされ、病名にはあまり重きをおかれなかった』〔注:《鍼灸治療基礎学》代田文誌著:医道の日本社刊21ページ〈十二原の表の解説〉より〕という話は、沢田氏の臨床家としての面目躍如たるところであると言えましょう。




徐霊胎による六六難に対する批判




ところで、難経の六六難に対して大いに批判の声をあげている人物に、広岡蘇仙と同時代の清国の医家、徐霊胎がいます。

彼は、医学の源流を《内経》に求め、《内経》の記載にもとずいて《難経》を是々非々で検討し《難経経釋》という書物を残しております。中でもこの六六難に対しては、極めて厳しい批判を展開しています。これは、広岡蘇仙の古経としての《難経》を重んじ『原気の妙用を説明する言葉はここに尽きています』と述べている姿勢と好対照をなしていますので、ここに紹介しておきます。

徐霊胎によるこの難に対する批判は、四点にわたっています。その一々について訳出しておきます。検討してみてくださいませ。番号のすぐ後の茶色の文字が、私(伴 尚志)の簡単な総括。次の若草色の文字が【原文】、最後の薄茶色の文字が、徐霊胎に対する私(伴 尚志)の批判などです。よく比較検討して考えてみてください。








  1. 六六難では心の原として太陵を、少陰の原として兌骨〔注:神門〕をあげていますが、このことと、《霊枢・邪客篇》において述べられている『諸邪が心にあるとするものは実はすべて心の包絡にある』のであり、『少陰には兪はない』とする説と矛盾するのではないか、という点。


    太陵は手の厥陰心主の穴であるにもかかわらず、これを心の原とするのはどうしてなのでしょうか?

    《霊枢・九鍼十二原篇》には、『陽中の太陽は心であり、その原は太陵に出ます』とあり、《霊枢・邪客篇》には、少陰だけに兪がないのはどうしてでしょうか?という問いに答えて、『心は五臓六腑の大主であり、精神が宿る場所です。その臓は堅固であり邪が入ることはありません。・・・(中略)・・・ですから、諸邪が心にあるというのはすべてこれは心の包絡にあるのです』と述べており、これが太陵を心の原とする理由です。

    神門を取ることについては、さらに説があり、《邪客篇》に『少陰だけに兪がないのは病むことがないからなのでしょうか?岐伯は答えて言いました。その外の経は病みますが臓は病みません。ですからその経をとるときだけには掌後鋭骨の端に取ります。』と。これがすなわちいわゆる兌骨です。

    しかしこれは病を治療する際の取穴法について述べているものであり、兌骨を少陰の原としているわけではありません。今、〔伴注:六六難では〕太陵を心の原としており、さらに兌骨を少陰の原としています。心はすなわち少陰です。このとおりであれば、少陰にはただ兪があるというだけでなく二つの兪があるということになります。もう少し深く考えてみるべきではないのでしょうか。



    〔伴注:これは、臨床的に、心が実は非常に重要であるということを、《難経》で明らかにされたのであると、そう解釈すべきところではないでしょうか。古典に拘わらず自在に古典を運用する姿勢というものを、ここで学ぶことができると私などには思えます。〕

    〔伴注:清代、葉霖の《難経正義》には、この徐霊胎の批判を踏まえて、『越人の心にあったのは、心に二つの原穴があるということではなく、君相の気が厥陰少陰において合しているのであるから、同じように治療することができるというところにある』と述べています。〕








  2. 《霊枢・本輸篇》には手の少陰の兪は手の厥陰の兪のことであると述べられており、兌骨を少陰の原とする説は実は《鍼灸甲乙経》にもとづいているのではないか、という点。

    《霊枢・本輸篇》には、心は中衝に出て井木とし、労宮に溜って栄とし、太陵に注いで兪とし、間使に行って経とし、曲沢に入って合とするとあります。これらはすべて手の厥陰の穴であり、これが経においては心の出入するところとされています。これに対して厥陰の本経については、経文では井栄などの穴は明らかにされていません。すなわち手の少陰の兪は、手の厥陰の兪を指していると理解すべきなのです。《甲乙経》に至って始めて、少陰本経の少衝を井とし、少府を栄とし、神門を兪とし、霊道を経とし、少海を合として、ここにおいて十二経の井栄が備わることとなりました。しかしこれは推測によって定めたものであって、経典には記載されていないことなのです。今、兌骨を少陰の原としているのは、《甲乙経》を本にしているものです。〔伴注:《甲乙経》の成書年代は《難経》よりはるかに時代を下って、晋代西暦二五六年~二五九年頃と考えられています。このことから察すると、この徐霊胎の記載には矛盾があると思われますが・・・・・・・・・・〕 〔伴注:っていうか、《難経》がはじめであり、《甲乙経》がそれを記述しはじめたのであるということでしょう。その成書年代から見ると、このように考えざるをえません。。〕








  3. 〔伴注:次の三と四が、六二難の「へ?」という疑問の内容ですので、よく論議していただきたく思います。もう一度掲げておきますと、六二難には、『腑に六種類ありますけれども、これは三焦とともに一気として考えます。 』とありましたよねぇ。〕

    〔伴注:わいていくる疑問は、

    腑だけが三焦の気と一つなのだろうか?
    臓はそうではないのか?
    それなら何故、臓に三焦の気の流行する場所である兪穴があるのか?
    そもそも、《内経》では、原穴というのは、臓の経穴について語られていうものであると、あるではないか。では、「原穴」の言葉は、《内経》におけるものと、《難経》におけるものとでは区別するべきものなのでしょうか?

    しかしそのような区別をすると、一元の気が流行している人体という基本的概念が、瑣末な言語解釈によって崩れてくるのではないでしょうか?
    では、「三焦」も「原穴」も、実は、難経の創作であり、一元の気の流行としての人体を、十二経脉の流行としての人体というくびきから実際の臨床的立場へ向けて解き放つための、論理的な冒険であると考えるべきなのでしょうか?

    しかしそれではなぜ、六二難でわざわざ『腑に六種類ありますけれども、これは三焦とともに一気として考えます。 』と敢えて腑と三焦との関連を強調しているのでしょうか?
    強調するのであれば、全身の気の流行、原気の流行としての身体と三焦との関連を強調すべき処ではないのでしょうか?
    それとも、鍼は瀉法であり、その臨床的な効果を確かめるためには、腑、すなわち陽分における処方が重要であると、そのような思いがあったために、この文章が生れたのでしょうか?
    臓が傷られれば死ぬ。ゆえに治療行為が成り立つのは腑に対するアプローチであるという基本的な発想、そんなものがあったのでしょうか?
    このことがもしかしたら、《内経》から《難経》への臨床的な発展であったのかもしれない、

    そんな風に考えることもできるかもしれません。〕








  4. 《霊枢・九鍼十二原篇》では、十二原は臓にある十二穴を意味していて、腑にそれはなく、十二経脉の原を意味するものではないのにどうして、六六難では、『十二経全てが兪を原としているのはどうしてなのでしょうか。 』と述べられているのか、ことにこの『全てが』という言葉はどこにつくのか、という点。


    これは誤りの中でも最たるものです。《霊枢・本輸篇》には、五臓にはただ井栄兪経合があり、六腑には他に一つの原穴がある。そのため五臓においては兪を原とし、六腑においては兪はそのまま兪、原はそのまま原としています。それではこの『全て』という言葉はどこにつくのでしょうか?

    兪を原とする説については、《霊枢・九鍼十二原篇》の『五臓に病があればこれはまさに十二原に取るべきです。・・・(中略)・・・陽中の少陰は肺です、その原は太淵に出ます、太淵は二穴です。陽中の太陽は心です、その原は太陵に出ます、太陵は二穴です。陰中の少陽は肝です、その原は太衝に出ます、太衝は二穴です。陰中の至陰は脾です、その原は太白に出ます、太白は二穴です。陰中の太陰は腎です、その原は太谿に出ます、太谿は二穴です。膏の原は鳩尾に出ます、鳩尾は一穴です。肓の原は(月勃-カ)(月央)〔伴注:ぼつおう:気海穴〕に出ます、およそこの十二原は、五臓六腑に病があるものを治療することを主ります。』という記載に基づいています。

    つまり、十二原という呼称は実は臓を指しているのであって腑を指しているのではなく、全部で十二穴ありますが、これは十二経の原を言っているのではありません。ここで述べられている太淵から太谿までの十穴は、《霊枢・本輸篇》のいわゆる兪穴、五臓には兪はあるが原はないので、兪をもって原としているという説に即しているものです。これをどうして六腑と並列させて述べることができるのでしょうか?もう少し深く考えてみるべきではないのでしょうか?


    〔伴注:これは、誤りというよりも、《難経》による《内経》からの発展、理論的な冒険と読むべきところなのではないでしょうか。そのように発想を替えてみると、《難経》がただ単に、学問的な《内経》の解説書ではなく、臨床指導書としての意味をそこにもたせることができるでしょう。〕








  5. 三焦は気を主るというのであれば、井栄兪経合などもすべて三焦の気であると考えるべきなのに、どうして注ぐところ兪にだけ原と名付けるのか。


    《霊枢・本輸篇》には、五臓は注ぐところを兪とし、兪はすなわち原であるとあり、六腑は過ぎるところを原とするとありますが、三焦の気については述べられてはいません。しかし、各経の留住深入するところがすなわち原であるということは《九鍼十二原篇》で『十二原は四関に出ます』という形で述べられています。これらの穴はすべて筋骨が転接する部位〔伴注:すなわち関節〕にあるために、病もまたそこに留まりやすくなるわけです。

    もし三焦が気を主るというのであれば、井栄〔注:など他の兪穴〕もみな三焦の気なのではないでしょうか。しかるにどうして、注ぐ所だけを名づけて原とするのでしょうか?いわんや三焦には自らその通る道としての経脉があるではないですか。どうして強引に合わせて語る必要があるのでしょうか。


    〔伴注:すべてが三焦の気であると解釈し発想し、中でも、原穴は、三焦の出入が現われやすい重要な場所だよ、ということを《難経》では語っているわけです。そのように突出した部位がせっかく提示されているのに、わざわざそれを再び五兪穴と並列的に扱おうとする徐霊胎の発想には、《内経》イズムのような固さを感じるのは私だけでしょうか。〕









2001年 7月29日 日曜   BY 六妖會




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