第 七十三 難

第七十三難




七十三難に曰く。諸井穴は肌肉が浅薄で、気が少ないため使うに足りないものです、これを刺すことはどのように考えればよいのでしょうか。


諸井穴は五兪穴の始めであり、指の先端に位置します。ですからその血肉はまだ充実していず、その気機もまだ盛ではありません。考えてみると、これでは原気の使令を任せるほどの力はないように思えます。また三焦は原気の別使であり、全身に行き渡ることによってその用〔訳注:機能〕を達します、これを使と呼びます。井穴は血気が不足している場所ですので、刺鍼したとしても、充分な効果をあげることがおそらくできないでしょう。人においても幼穉な〔訳注:幼少の〕時期には血気がまだ定まっておらず、智計〔訳注:智恵〕もまだ充分発達していないので、役目を負わせることができないようなものです。






然なり。諸井穴は木です。栄穴は火です。火は木の子です。ですから井穴を刺そうとするときは、栄穴を瀉せばよいわけです。


諸井穴は気が少ないですが、治療法として子母迎隨の方法があるので、補瀉の用をなすことができます。実するときはその子である栄穴を瀉し、虚するときはその母である合穴を補います。本文では子をあげていますが、このような場合は母についてもその論に準じて理解を広めていきます。


問いて曰く。五兪穴には皆な子母迎隨の方法があります。もし合穴の治療をしようとすると、必ずその母である経金穴を補い、その子である井木穴を瀉さなければなりません。けれどもこの井穴には使われる力が十分にないというのですから、これをどのように治療していけばよいのでしょうか。

答えて曰く。諸井穴には気が少ないですけれども、補瀉の効能が全くないというわけではありません。この難では、諸井穴の気が少ないという例として一つをあげているだけで、これをとってはいけないと言っているのではありません。他の難では皆な、五兪穴を合わせてとることを言っているのですから、井穴だけ取らないですますことはできません。今、拳法家に指先を按ずる術があります。わずかに人の指先を按じているだけなのですが、その人はあまりの痛さに我慢できません。また、指頭を用いて劫殺する術もあります。その言葉に、「指頭は吾が家風の鋒刃である。その肌肉が浅薄だからといって軽んじてはいけない。」とあります。また、指をあげてものを指し、指を揺らして可否を表わします。仏教では、指を一本立てて、醒悟する〔訳注:悟りを開く〕ものがあります。言葉を用いずに人に指図する時に、掉頭(とうとう)〔訳注:頭を振る〕・点頭〔訳注:うなずく〕・送り目・偸眼(とうがん)〔訳注:盗み見〕をするといった類と同じです。これらは皆な陽に属する神用です。






ですから経に、補うものは瀉してはいけません、瀉すものは補ってはいけませんとあるのです。それはこのことを言っているのです。


井穴をとって補おうとするときは、その合穴を補うのであってその栄穴を瀉すのではありません。もし栄穴を瀉してしまうと、合穴を補ったとしても補の効果を得られないからです。井穴をとって瀉そうとするときは、その栄穴を瀉すのであってその合穴を補うのではありません。合穴を補ってしまうと、栄穴を瀉したとしても瀉の効果を得られないからです。このように補瀉を混淆しないようにしなければなりません。経に補瀉とあるのはこの子母補瀉の義と同じですから、証として引いて文を結んでいるのです。


問いて曰く。どのような根拠で、経に補瀉とあるものを、この子母補瀉の義と同じであると言われるのでしょうか。

答えて曰く。井穴をとって補瀉するということは、補うか瀉すかどちらかです。ところが経には、補うものは瀉してはいけません、瀉すものは補ってはいけませんとあります。補うものは瀉してはいけません、瀉すものは補ってはいけませんとあるのですから、この言葉が子母補瀉の別によるものであることは明らかなのではないでしょうか。



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