第 七十六 難

第七十六難




七十六難に曰く。何を補瀉と言うのでしょうか。補うべき時はどこからその気を取り、瀉すべきときはどこから気を置くのでしょうか。


「補」とは補衣〔訳注:衣服を重ねる〕という意味で、正気を補い護ることを指します。「瀉」とは瀉水という意味で、邪気を瀉し去らせることです。補瀉の道には他に意味はありません。その気を取り定着させると気が充実します、これが補です。その気を置き去ると気が減ります、これが瀉です。取るということは力を集めて納め取るということであり、置くということは他に任せて捨て置くということです。およそ人は、気が充実していれば健康であり、気が減っていれば疲れます、気があれば生き、気がなくなれば死にます。ですから治法もただこの取るか置くかということに問題があるのです。この刺法については七十一難に著わされています。






然なり。補うべきときは、衛に従って気を取ります。瀉すべきときは、栄に従って気を置きます。


「衛」とは人身を衛護する〔訳注:保護する〕ものであり、外部からの邪を防御するもので、その気は常に皮膚に充ちています。皮膚は表墻〔訳注:表にある垣根〕であり百骸を容れる嚢です、ですから表を閉じ気を納めれば、気嚢が充満するのです。これが衛に従って気を取るということです。「栄」とは人身を生栄する〔訳注:生かし栄養する〕ものであり、内部を潤し養うものです、これは嚢の内部に盛な血液のことです。嚢を開いて気を散ずると、気嚢は減りますから瀉となります。これが栄に従って気を置くということです。気が入れば実し、気が出ると虚します。いわゆる入るものが実となり、出るものが虚となります。今、医師の中には妄りに長鍼を用い、腹背を貫いて奇術であると自慢しているものがいますが、その害は甚だしいものがあります。補瀉の要諦が栄衛にあることを知らないためにそのようなことをしているのです。このような不学の罪は、天誅〔訳注:天罰〕を逸れることができません。






その陽気が不足し陰気が有余となるものは、先ずその陽を補い、その後でその陰を瀉します。陰気が不足し陽気が有余となるものは、先ずその陰を補い、その後でその陽を瀉します。


陽気は表にあり上にあり、心肺が主る所です。陰気は裏にあり下にあり、腎肝が主る所です。陰陽が和平を失い頗陂して〔訳注:偏って〕いる場合、その有余であるか不足であるかに従ってこれを補ったり瀉したりします。けれども実際にはともに補を先に施します。また補法を用いてその気を閉ざすと、気嚢が充実して熱します。これがいわゆる焼山火です。瀉法を用いて気を散ずると、気嚢が消衰して冷えます。これがいわゆる透天涼です。鍼というものは微細なものですけれども、気機の神をよく見ることができれば人身に寒や暑を与えることができるのです。上盛下虚や半虚半実のものの場合は、温涼を兼ねて行います。これがいわゆる龍虎交戦です。このように鍼というものにはまた造化の妙用があるものなのです。吸うときには気が閉じ、呼す〔訳注:吐く〕ときには気が散じます。《内経》に言う所の呼吸の諸鍼法は、《難経》では栄衛に集約されています。また道家には、新〔訳注:外部からの新しい空気〕を吸うことを補とし、故〔訳注:内部からの古い空気〕を吐くことを瀉とします。これは鍼を用いずに陰陽を通行させるものです。






栄衛を通行させるための、これはその要点です。


陰陽が和平であり表裏が和平であるときは、栄衛がよく通行しています、これは栄衛を鍼の要としたものです。上難では栄衛を刺すことを治法の要とし、この難では反って補瀉を施すことを栄衛を調えるための要としています。転換させて文を結んでいるわけです。また、上の両難は四時五行について述べて刺法を博く把えているものであり、この難は栄衛と陰陽とに刺法を集約させて把えているものと考えることができます。


問いて曰く。栄衛を刺す方法があって筋骨を刺す方法がないのはどうしてなのでしょうか。

答えて曰く。衛気は天に象り、栄血は太陽に象ります。寒暑を起こしたり生殺をなすものは皆な天と太陽の力です。ですから栄衛を刺せば、補瀉温涼を起こすことができるため、治法の大概をここに言い尽しているのです。


どうして別に骨肉を刺す方法がないのでしょうか。

栄を刺す際に浅深の別があります。浅いものを血肉とし深いものを筋骨とします、これは刺法の縦です。また栄穴と兪穴とを血と肉とし井穴と合穴とを筋と骨とします、これは兪穴の並び方によるもので、刺法の横となります。



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