第 八十 難

第八十難




八十難に曰く。経に言う、見ることができたような状態で入れ、見ることができたような状態で出す、とはどういう意味なのでしょうか。


前難では鍼下の気を形容して語りましたが、この難では手下の気を形容して語っています。この「見ることができたような状態」と前難の「得るような失うような」状態とは同じ意味です。つまり、気が至るを見て鍼を入れ、気の尽きるを見て鍼を出すということを語っているのです。






然なり。いわゆる見ることができたような状態で入れるということは、左手で気が来至したのを見て鍼を内れ、鍼を入れて気が尽きるのを見て鍼を出すことを言います。


前難の終わりでは「有るような無いような」状態という言葉を略していましたが、この難では初めに「見ることができたような状態で」という言葉を入れて、「出す」という言葉を略しています。これは省文という文法であり、ともに欠けているのではありません。見ることができたような状態で入れるということは、左手を使って致した〔訳注:招き寄せた〕気を候って鍼を入れるということです。見ることができたような状態で出すとは、手の下に得た気が尽きるのを候って鍼を出すということです。手の下の気が尽きた場合は鍼を留めていてはいけません。気が尽きているのに鍼を留めておくと、反って過ちがないものを誅する〔訳注:罰する〕ことになるからです。


問いて曰く。本文の「鍼を入れて気が尽きるのを見る」とは、鍼下の気のことなのではないのでしょうか。

答えて曰く。前難では、鍼下の気には牢と濡とがあり、それを補瀉すべきであるということを語っています。この難では、手の下の気が来尽すに従って鍼を出内すべきであるということを語っています。気が至ることによって鍼を入れ、気が尽きることによって鍼を出す、このように鍼の出入は皆な気に従って行ないます。もし気の去来に従わなければ、いたずらに良肉を傷ることになり、治療効果をあげることはできません。本文ではただ出内についてだけ語っており補瀉については語っていないのですから、これが鍼下の気を指すものではないということは明らかです。






これを、見ることができたような状態で入れ、見ることができたような状態で出すと言います。


問いに合わせて文を結んでいます。《難経》においては、診脉・察病・鍼法・治法などを候う際、全て気を知るということを主とし、形には拘わっていません。これは諸家の言辞と非常に異なっている部分です。ですから気を見るということを巻末に掲げているのです。太公望〔訳注:中国古代の周の文王の参謀〕は、蓍亀〔訳注:めどぎと亀甲:占いの道具〕を腐草枯骨〔訳注:すなわち役に立たないもの〕とし、旗鼓〔訳注:軍を進めるための道具〕を毀折させることを避けようとはしませんでした。〔訳注:つまり、占筮の道具などに頼ることなく、実際の城の気の変化を望観することによって、兵を進退させたという意味〕そのかわりに、城の気が死灰のようであるとか、城の気が東に向かって出ているということを基にして戦端を開きました。このように太公望が吉凶の形迹に拘わることがなかったのは、神武〔訳注:神武天皇〕のような徳をもち、気機に通達していたからです。



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