八一難の解釈





八一難は、《難経》における最終の難になります。


《難経本義》において滑伯仁は何を思ったか、この答辞の部分の『是病』という言葉を、『この二字は、誤りでなければ衍文〔伴注:誤って挿入された文章〕であろう』と述べています。しかし、歴代の解釈家は《難経鉄鑑》で示されているように立派な答辞であると語るか、滑伯仁の解釈に触れずに、だまってそのまま訳していくかしております。この部分に関しては、滑伯仁の惨敗というところですね。


答辞において例としてあげられている文言は、七五難の『東方が実し西方が虚した場合には、南方を瀉して北方を補う』という補虚瀉実の方法です。この難ではこれが中心の課題ではありませんので、この内容には触れません。








『実を実し虚を虚し、不足を損し有余を益してはいけない』という文言は、《難経》においては、事あるごとに指摘されています。八一難は《難経鉄鑑》で述べられているように、『この虚実と補瀉とは医を行なう際の大関鍵〔訳注:もっとも大切な部分〕ですので、これを最後の難にあげているのです。』と解釈するのが、一番かっこいい感じがします。




実実虚虚の問題




そもそもこの『実を実し虚を虚し、不足を損し有余を益してはいけない』という戒めは、《霊枢・九鍼十二原》にも見られます。『実のものを実してはいけません。虚のものを虚せしめてはいけません。不足のものを損ない有余のものを益すことを、甚病と言います。病がますます激しくなります。』と。

この『実を実し虚を虚し、不足を損し有余を益してはいけない』という戒めは、つまるところ《難経鉄鑑》で注されている通り、『その平を得』るということを治療の目的としなければならないと述べているものです。このことは言葉としては簡単な言葉なのですが、実際に治療に臨んだ時には非常に微妙な言葉であるということがわかります。

これは、
  1. 病因の虚実、外邪性のものか内傷性のものかの判別がなされなければなりません。病因の虚は内傷性のものであり実は外邪性のものであるとそのまま語ることはできない。

  2. 病人の全体の生命力の虚実をわきまえずに治療行為を行うという危険に対して警鐘を鳴らしています。これは、全身の体力が極めて弱っている患者さんに対して、瀉法を行なうことに対する危険を意味しています。

  3. 全体の生命力の虚実をわきまえても、症状を発生している局所の虚実がそのまま出てくるわけではありませんので、次にわきまえなければならないことは、局所の虚実ということになります。経済といっしょでミクロとマクロとがあるのよね。合成の誤謬。一個一個は正しいのだけれども、それが合成されてマクロ的になると誤っている。

  4. さらには、その局所の状態と全身の生命力の状態がどのようにリンクしているのか、また、それが、脉状その他の四診にどのように表現されているのかということを観察していかなければなりません。

  5. 次いで、穴処を定めてそこにアプローチするわけですが、その場合の穴処の定め方、穴処の虚実を見極めなければなりません。

  6. それに従って、その穴処にアプローチする場合の手技の補瀉を決定しそれを行わなければなりません。

  7. さらに穴処にアプローチすることによって、全体の虚実がどのように変化するのか予測し、それが実際に成功したかどうか、個々の体表を点検し直すことによって検証しなければなりません。




以上のように、『実を実し虚を虚し、不足を損し有余を益してはいけない』と簡単に言ってみても、実行するには実に困難な行為であるわけです。








また、上記、古典的な論理に沿ったもの以外に、生命力を増補することがそのまま、実を実するということになるのか。邪気を瀉することがそのまま、虚を虚せしめることになるのかといった疑問も生じます。元気であればいくら元気でもいいではないか。毒を抜かなければ元気は出てこないではないか。そういう設問です。

そもそも治療という行為は、患者さんの元気を増進させることを目的としてなされるわけですが、その方法論として、病邪に着目してその病因を除くのか、正気に着目してその正気を増進させるのか、あるいはその両者なのか、そういった技術的な問題が基本的に発生するわけです。その中で、『平』を目的とする。このように《難経》では決しているわけですね。これは実は非常に大胆な発言であると思います。

着目点として、患者さんの器の大きさが存在しているということ〔注:すでに生きてそこに存在しているという生命力の大きさ〕がたいせつなところでしょう。勝負所は患者さんの中の生命力のアンバランスであると《難経》では述べられているということでしょう。このことをきっちりと押さえなければならないということが《難経》では繰り返し述べられているわけです。


つまりこれは、外気功のように外から生命力を注入しようとするような治療法を、《難経》は排しているのであると考えることもできましょう。さらに食物によって、外から各臓の生命力を補おうとする発想をもつことができる湯液と、あるがままの身体にアプローチする鍼灸とは、大きな相違点があるということをも、このことは意味していると言えます。








もし、この『実を実し虚を虚し、不足を損し有余を益してはいけない』という言葉の中の、実というものが邪気の実を示し、虚というものが正気の虚を示すものであるとするならば、正気を補い邪気を瀉すということが治療法則として成り立つということになるわけです。しかし、正気を瀉し邪気を補うということが、《難経》において予想されていることでは、ないのではないでしょうか。

鍼灸をすることによって、正気が充実してくれば、正邪の抗争が激しくなるという可能性はありますが、これは邪気が増加するということを意味しているものではありません。

また逆に、『実を実し虚を虚し、不足を損し有余を益してはいけない』という言葉の中の、実というものが正気であり、虚というものが邪気であるとするならば、それは問題なく、邪気は自然に正気によって払われていくものでありますから、これは治療の必要が基本的になく、また、実を実せしめ虚を虚せしめるという治療方針は何ら問題ないということになります。


このように考えてみると、この『実を実し虚を虚し、不足を損し有余を益してはいけない』という言葉は双方とも正気、身体内における気=生命力のバランスの立て方のことを述べているものであったのだということが理解されるでしょう。

患者さんの身体の内部で、今現在充実しているところをさらに充実させることは、全体のバランスをさらに崩すことになるのでこれは避けるべきであり、今現在弱っているところをさらに弱めることは、全体のバランスをさらに崩すことになるので、これは避けるべきであるということを述べているということが理解されます。そのような意味で、『平』を求めるということを治療方針として立てていくべきであると、《難経》では述べているわけですね。




中心を建てる




ところで、ここに、身体における、中心を建てるという発想が存在します。それは別の言葉を使うと、脾腎を建てるという発想になり、または、臓腑の中心、大黒柱としての肝の陰陽の気を建てるという発想につながります。この中心を建てるという考え方が、《難経》では、全体の気=生命力のバランスをとるという観点から、否定されているのでしょうか。それとも、この考え方は、後世の医家たちによって、平面的な五行論が立体的な臓象理論へと発展したように、発展したものなのでしょうか。

臓腑の中心、という考え方とはまた別に、全身を一つの気として把握する中から発想される「中心」の概念、すなわち臍下丹田を充実させる、いわゆる、気海関元の多壮灸によって虚損病から立ち直らせるという発想は、もしこの部位が充実しているなら病となることはないという意見は別としましても、この部位をさらに充実させるということに、何かの問題が生じると考えるのでしょうか。《難経》では、このような、中心概念が欠落しているのではないか、とも考えられます。

中心を建てて枝葉をバランスよく刈り揃えるということを私は臨床的には考えつづけていることなのですが、《難経》では、この枝葉をバランスよく刈り揃えるということだけが語られている、ということかもしれません。

しかし、中心を建てるということに関しては実は、三焦論でもって、代替的に腎命門が中心なのだよと述べられている。あるいは、《難経》の三焦論から後世の医家が理論を発展させて中心の概念を持つに至った、と、そのように考えることができるのかもしれません。









2001年 7月29日 日曜   BY 六妖會




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