訳者あとがき



縁を得て、この書の現代語訳にたづさわり、すでに数年を経、ようやくここまでやってきたと、感慨にふけっております。《難経》に関する通釈書はいくつか読んではおりましたが、この書ほど、《難経》の真髄はなんたるかということを、あまねく詳細に説き明かしたものを私は知りません。このような書物が今まで巷間に埋もれていたということが、信じられないような思いでおります。




通読された方は気づかれたと思いますが、この書の六十六難の図は、かの《鍼灸真髄》に収録され、沢田健先生が額に掲げられていた十二原の表です。このような形で、沢田健先生の勉強の足跡に触れることができたということもまた、奇縁であろうかと思います。




《鍼灸真髄》の中で、代田文誌先生は、《難経鉄鑑》を写したときの感動を次のように語っておられます。『この度の見学中、うれしかったのは、永田氏の御陰で、沢田先生秘蔵「難経鉄鑑」を写すことが出来たことだ。之を写しつゝ此の書の微に入り細に入り、残る処なく究め尽されているのに驚嘆した。あゝ此の如き書が此の世にあったのだ。・・・(中略)・・・先生の常に座右にかゝげられている十二原の表は、実に此の六十六難の図解である。』と。(《鍼灸真髄》:医道の日本社刊:159ページ)




そしてこの難解な図の意味を、《難経鉄鑑》では、明確に解き明かしています。以下、その一部を引用します。『人の身体とは本来一つの気が凝結することによって形成されたものです。この一つの気を主宰するものを原と名づけます。この原気が動くに従って、それを上中下の三ヶ所に報使するものを三焦と名づけます。焦とは焦灼するという意味で、一点の火の精が腎間に舎ったものが原です。その焔の勢いを四肢百骸に薫蒸させて水穀を運化していくものが三焦であり、その光輝を五志に炳照させて〔訳注:光り輝かさせて〕知覚や諸々の毫毛などに及ばし、届かないところがないようにするものが心主です。このように三焦の気を通じて臓腑を循っていながら、腎中の火である原には一毫も〔訳注:ほんの少しも〕勤労するということがありません、これは火の神速がその力を用いることなしにその極まりない妙用を尽しているからです。仏教では、火を人の神通力と考えますが、真に言い得ていると思います。』このように、仏教の言葉まで用いて、全難にわたってくり返し、人間存在とは何か、ひとつの気で構成されている人間をどのように把握していくのかということを、《難経》を尊崇し、《難経》を解釈するという行為を通じて、富原蘇仙は説き続けているのです。




このような素晴らしい書物を訳出する機会を与えてくださったたにぐち書店の谷口社長には、非常に感謝しております。



1996年10月10日

訳者 伴 尚志  謹識


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