扁鵲とその時代



さて、扁鵲という人の人となりは、司馬遷による中国の歴史書《史記》の中の、《扁鵲倉公列伝》に述べられています。司馬遷が《史記》を著したのは、前漢時代の最盛期、紀元前90年頃とされていますから、扁鵲の伝説は、500年以上の時を超えて生きつづけていたということを意味しています。これは、もし事実が含まれているとしても、かなり誇張されている可能性があるということを踏まえておく必要があるということを意味しています。いかに名医であっても、室町時代の伝説が現代のわれわれに伝わっているのかどうかということを考えてみるとよく理解できるのと思います。当時は印刷技術などもなかったのですから、なおさらです。

さて、《扁鵲倉公列伝》によると扁鵲は、斉の桓公〔注:紀元前643年没〕の望診を行い、その死期を断じていますから、その前後に生きていた人ということになります。

扁鵲が生きていたその当時は、どのような時代だったのでしょうか。 そのことを考える前に、中国史をざっとおさらいしておきましょう。











孔子は、紀元前551年に生まれ、紀元前479年に亡くなっています。斉の桓公の時代に扁鵲が存在したとすると、孔子をさかのぼること百数十年前であるということになります。ちなみに、陰陽説と五行説とを統一した概念として唱えた鄒衍すうえんは紀元前300年頃の人ですから、扁鵲はそのさらに300年以上前に存在したことになります。

陰陽五行説は一説によると、鄒衍より100年程前から統一して把える試みがなされていたという研究もありますが、扁鵲の時代にはまだ、陰陽説と五行説とは統一して把握されていなかったということは、《難経》を扁鵲の佚文として読んでいく上で重要な観点であろうかと思います。





扁鵲が最初にその名を顕わす斉の国の首都は、天下の物資と人があつまる経済、学問の中心としてさかえました。全国の諸子百家をあつめて有名な【稷下しょくか学宮】は、ここに作られました。

また、燕・斉とその海上の渤海湾は、扁鵲を下ること240年、戦国時代に神仙家の活動が活発だったところです。漢代に入って盛んになる黄老道は、この地域の人々が関与していると考えられます。

また、仙人としての黄帝もこの人々によって創作されたと言われています。このことは、東洋医学における最も重要な古典である《黄帝内経》が作成された時期・地域・思想的な背景を考えていく上で非常に重要な意味をもってきます。

《黄帝内経・素問》の第一章、《上古天真論篇》は、黄帝が仙人となって天に登ったという言葉から始まっているからです。書物の冒頭のもっとも重視される場所がこの言葉から始まっているということから考えると、現今の《黄帝内経》のもっともたいせつな思想は、この戦国時代の神仙家の思想を核とし、これ以降に形成されたものであると考えなければなりません。





ということは、扁鵲が《難経》の元となる考え方をまとめる際に参考にした医学書は、現在われわれが見ることのできる《黄帝内経》とはかなり異なるものであったということは、容易に想像することができるでしょう。

しかしこのことはもちろん、扁鵲が参考にした書物が、現在われわれが見ることのできる《黄帝内経》の元になったものかもしれないという想像をも否定するものではないということもまた、押さえておく必要があると思います。





この地域の求道者たちを《史記》の封禅書では、渤海沿岸の方士と呼んでいます。方士といえば思い起こすのが、秦の始皇帝が不老長寿の薬を探しに蓬莱に行かせた徐福ですが、彼の生誕の地は、斉の地の北側の渤海沿岸ではなく、斉の地である山東半島の南側の黄海沿岸であるといわれています。戦国時代の末期にはこの渤海沿岸の方士の勢力がずいぶん拡大していたのではないかと考えられますね。

そしてこの渤海沿岸の方士たちが開いた黄老道は、漢代に入って高祖(劉邦)の妻であり二代目皇帝の母である呂后によって尊崇されて広まり、後の道教の源流の一つとなっていくわけです。





2000年 2月22日 火曜   BY 六妖會


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