難経原文 二



十難に曰く。一脉十変するとはどのような意味なのでしょうか。

然なり。五邪の剛柔が相い逢うという意味です。

たとえば、心脉が急甚のものは、肝邪が心を侵したものです。心脉が微急のものは、胆邪が小腸を侵したものです。心脉が大甚のものは、心邪が自ら心を侵したものです。心脉が微大のものは、小腸の邪が自ら小腸を侵したものです。心脉が緩甚のものは、脾邪が心を侵したものです。心脉が微緩のものは、胃邪が小腸を侵したものです。心脉が濇甚のものは、肺邪が心を侵したものです。心脉が微濇のものは、大腸の邪が小腸を侵したものです。心脉が沈甚のものは、腎邪が心を侵したものです。心脉が微沈のものは、膀胱の邪が小腸を侵したものです。

五臓の各々に剛柔の邪があります。そのため一脉が変じて十となるのです。





十一難に曰く。経に、脉が五十動に満たないうちに一止するものは、一臓に気がなくなっている状態であるとありますが、これはどの臓のことなのでしょうか。

然なり。人が呼吸を吸うときには陰の臓に従って吸い、吐くときは陽の臓によって吐きます。一止する場合は、吸う息が腎まで至ることができずに肝に至って還るのです。

ですから、一臓に気がないものとは、腎気が先に尽きたものであると理解することができます。





十二難に曰く。経に、五臓の脉がすでに内に絶している者に対して鍼を用いるものは、反ってその外を実せしめることになり、五臓の脉がすでに外に絶している者に対して鍼を用いるものは、反ってその内を実せしめることになる、とあります。この内外の絶は、どのようにして区別すればよいのでしょうか。

然なり。五臓の脉がすでに内に絶しているものとは、腎肝の気がすでに内に絶しているもののことです。にもかかわらず医師が反ってその心肺を補うのです。五臓の脉が外に絶するものとは心肺の脉が外に絶しているもののことです。にもかかわらず医師が反ってその腎肝を補うのです。

陽絶のものに対してその陰を補い、陰絶のものに対してその陽を補う。これを実実・虚虚・損不足・益有余と言います。

このような治療によって死んだ場合は、医者がこれを殺したのです。





十三難に曰く。経に、その色を見てもその脉を得ることがなく、反って相勝の脉を得るものは死に、相生の脉を得るものは病自ずから癒えるとあります。本来、色と脉とは互いに入り混じり同じように現われるものなのではないでしょうか。これをどのように理解すればよいのでしょうか。

然なり。五臓には五色があり全て面に現われます。これは寸口・尺内と相い応ずべきものです

たとえば、色が青い場合はその脉は弦で急、色が赤い場合はその脉は浮大で散、色が黄色い場合はその脉は中緩で大、色が白い場合はその脉は浮濇で短、色が黒い場合はその脉は沈濡で滑であるという状態が、いわゆる五色と脉とが互いに入り混じり相い応じている状態です。

脉が数のものは尺の皮膚もまた数であり、脉が急のものは尺の皮膚もまた急であり、脉が緩のものは尺の皮膚もまた緩であり、脉が濇のものは尺の皮膚もまた濇であり、脉が滑のものは尺の皮膚もまた滑です。

五臓各々に声・色・臭・味があります。これらは寸口・尺内と相い応じます。

その応じていないものは病気です。たとえば、色が青い場合、その脉状が浮濇で短、もしくは大で緩のものを相勝とします。浮大で散、もしくは小で滑のものを相生とします。

経に、一を知るものを下工とし、二を知るものを中工とし、三を知るものを上工とし、上工は十に九を全くし、中工は十に八を全くし、下工は十に六を全くすと語られているのはこのことを指します。





十四難に曰く。脉に損至があるとはどういう意味なのでしょうか。

然なり。至の脉は一呼再至を平と言い、三至を離経と言い、四至を奪精と言い、五至を死と言い、六至を命絶と言います。これが至の脉です。では損の脉とは何でしょうか。一呼一至を離経と言い、再呼一至を奪精と言い、三呼一至を死と言い、四呼一至を命絶と言います。これが損の脉です。

至脉は下から上り、損脉は上から下ります。

損脉の病状にはどのようなものがあるのでしょうか。

然なり。一損は皮毛が損なわれ、皮膚が集まり毛が落ちます。二損は血脉が損なわれ、血脉虚少で五臓六腑を栄することができません。三損は肌肉が損なわれ、肌肉消痩し飲食が肌膚となることができません。四損は筋が損なわれ、筋緩み自ら収持することができません。五損は骨が損なわれ、骨が痿えて床に起つことができません。これと反対の順序で起こるものは、ここに至の病を収めたものです。上から下り、骨が痿えて床に起つことができなくなったものは死にます。下から上り、皮膚が集まり毛が落ちるものは死にます。

損を治療する方法にはどのようなものがあるでしょうか。

然なり。肺が損なわれたものはその気を益し、心が損なわれたものはその栄衛を緩くし、脾が損なわれたものはその飲食を調え、その寒温に適せしめ、肝が損なわれたものはその中を調え、腎が損なわれたものはその精を益す。これが損を治療する方法です。

脉には、一呼再至一吸再至があり、一呼三至一吸三至があり、一呼四至一吸四至があり、一呼五至一吸五至があり、一呼六至一吸六至があり、一呼一至一吸一至があり、再呼一至再吸一至があり、呼吸再至があります。脉はこのように来ますが、どのようにすればその病状を弁別して知ることができるのでしょうか。

然なり。脉が来ること、一呼再至・一吸再至で大でも小でもないものは、平と言います。一呼三至・一吸三至のものは、病を受けた所であるとします。前大で後小のものは頭痛目眩し、前小で後大のものは胸満短気します。一呼四至・一吸四至は、病が激しくなろうとしている状態です。その脉状が洪大のものは煩満に苦しみ、沈細のものは腹中が痛み、滑のものは熱に傷られ、濇のものは霧露に中ったものです。一呼五至・一吸五至は、その人が病によって困窮している状態です。沈細のものは夜悪化し、浮大のものは昼悪化します。大でも小でもないものは困窮している状態であっても治すことができます。けれどもその脉状が大であったり小であったりするものは、治療し難いものであると判断します。一呼六至・一吸六至は、死脉とします。沈細のものは夜死に、浮大のものは昼死にます。一呼一至・一吸一至は、損と名づけます。今は元気に活動している人も、床につくことになるでしょう。どうしてかというと、血気がともに不足しているからです。再呼一至・呼吸再至は、無魂と名づけます。無魂のものは当に死のうとしている状態です。このような脉状で活動している人のことを、行尸と名づけます。

上部に脉があり下部に脉がない場合は、その人は吐くべきです、もし吐かない場合は死にます。上部に脉がなく下部に脉がある場合は、もし困窮している状態であったとしても害はありません。たとえれば、人の尺部に脉があるということは樹に根があるようなものです。樹に根があれば、その枝葉が枯れてしまっても根本からまた再生しようとします。同じように脉にも根本があれば、その人には元気があるということなので、死ぬことはないと理解するのです。





十五難に曰く。経に、春脉は弦・夏脉は鈎・秋脉は毛・冬脉は石と書かれています。これは王脉でしょうか、それとも病脉でしょうか。

然なり。弦鈎毛石は四時の脉です。

春脉は弦。肝は東方の木です。万物が始めて生じたところなので、まだ枝葉はありません。ですからその脉状は、濡弱で長なので、弦と名づけます。

夏脉は鈎。心は南方の火です。万物が繁茂するところなので、枝を垂れ葉が茂り、全て下り曲って鈎のようになります。ですからその脉状は、来るときは疾くて去るときは遅いので、鈎と名づけます。

秋脉は毛。肺は西方の金です。万物が終わるところなので、草木や花や葉は全て秋に落ち、その枝だけが毫毛のように残ります。ですからその脉状も軽虚で浮きますので、毛と名づけます。

冬脉は石。腎は北方の水です。万物を蔵するところなので、盛冬の時期には、水も凍って石のようになります。ですからその脉状は、沈濡で滑となりますので、石と名づけます。

これが四時の脉です。

もし変があればどのようになりますか。





然なり。春脉は弦、これに反するものは病となります。

どのような脉状のものを反するというのでしょうか。

然なり。その脉気が来る状態が実強のものを太過と名づけ、病が外にあるとします。その脉気が来る状態が虚微のものを不及と名づけ、病が内にあるとします。その脉気が来る状態が厭厭聶聶として楡葉を循るようなものを平と名づけます。さらに実して滑となり、長竿を循るようなものを病と名づけます。急で勁となり、ますます強くなって新たに張ったばかりの弓の弦のようなものを死と名づけます。春脉は微弦のものを平と名づけます。その弦が多い状態のものは胃の気が少なく、病と名づけます。弦脉だけが触れて胃の気のないものを死と名づけます。春の脉状も胃の気があるかどうかということを本にして見ていきます。

夏脉は鈎、これに反するものは病となります。

どのような脉状のものを反するというのでしょうか。

然なり。その脉気が来る状態が実強のものを太過と名づけ、病が外にあるとします。その脉気が来る状態が虚微のものを不及と名づけ、病が内にあるとします。その脉気が来る状態が累累として環のようで、琅玕を循るようなものを平と名づけます。脉気が来る状態がますます数となり、鶏が足を挙げているようなものを病と名づけます。前が曲り後へ居して、帯鈎を操るようなものを平と名づけます。夏脉は微鈎のものを平と名づけます。その鈎が多い状態のものは胃の気が少なく、病と名づけます。鈎脉だけが触れて胃の気がないものを死と名づけます。夏の脉状も胃の気があるかどうかということを本にして見ていきます。

秋脉は毛、これに反するものは病となります。

どのような脉状のものを反するというのでしょうか。

然なり。その脉気が来る状態が実強のものを太過と名づけ、病が外にあるとします。その脉気が来る状態が虚微のものを不及と名づけ、病が内にあるとします。その脉気が来る状態が藹藹として車蓋のようで、これを按ずるとますます大となるものを平と名づけます。上らず下らず鶏羽を循るような状態のものを、病と名づけます。これを按ずると蕭索として毛が風に吹かれるような状態のものを、死と名づけます。秋脉は微毛のものを平と名づけます。その毛が多い状態のものは胃の気が少なく、病と名づけます。毛脉だけが触れて胃の気がないものを死と名づけます。秋の脉状も胃の気があるかどうかということを本にして見ていきます。

冬脉は石、これに反するものは病となります。

どのような脉状のものを反するというのでしょうか。

然なり。その脉気が来る状態が実強のものを太過と名づけ、病が外にあるとします。その脉気が来る状態が虚微のものを不及と名づけ、病が内にあるとします。その脉気が来る状態が上大下兌、濡滑で雀の啄むような状態のものを、平と名づけます。啄啄と連属して、その中に微曲するものを、病と名づけます。その脉が来る状態が解索のようであり、去る状態が弾石のようなものを、死と名づけます。冬脉は微石のものを平と名づけます。その石が多い状態のものは胃の気が少なく、病と名づけます。石脉だけが触れて胃の気がないものを死と名づけます。冬の脉状も胃の気があるかどうかということを本にして見ていきます。

胃は水穀の海です。四時に禀けることを主ります。皆な胃の気を本としています。これが四時の変病、死生の要会です。脾は中州です。その平和な状態を見ることはできません。衰えることによって始めて現われて来るからです。その脉が来る状態が、雀が啄ばむような状態であったり、水が下に漏れ落ちるような状態のものは、脾が衰えることによって現われています。





十六難に曰く。診脉の方法には、三部九候・陰陽・軽重・六十首、一脉が変じて四時となる法などがあります。聖を離れて久遠の時が経ちますが、それぞれが法です。どのようにしてこれを弁別すればよいのでしょうか。

然なり。病には、内外の証があります。

それではその病は、どのように現われるのでしょうか。

然なり。肝脉を得た場合、その外証は、潔を善み・顔色は青く・よく怒ります、その内証は、臍の左に動気があり、これを按ずると牢くあるいは痛みます。その病は、四肢満閉し・淋溲し・便は出難く・転筋します。このような状態のものは肝です。もしこのような状態ではないものは違います。

心脉を得た場合、その外証は、顔色が赤く・口が乾き・笑うことを好みます、その内証は、臍の上に動気があり、これを按ずると牢くあるいは痛みます。その病は、煩心・心痛・掌中熱して啘します。このような状態のものは心です。もしこのような状態ではないものは違います。

脾脉を得た場合、その外証は、顔色が黄色く・善く噫し・思を好み・味を好みます、その内証は、臍の部分に動気があり、これを按ずると牢くあるいは痛みます。その病は、腹部が脹満し・食物が消化せず・体重節痛し・怠墮で嗜臥し・四肢が収まらなくなります。このような状態のものは脾です。もしこのような状態ではないものは違います。

肺脉を得た場合、その外証は、顔色が白く・善く嚔し・悲愁して楽しまずに哭そうとします、その内証は、臍の右に動気があり、これを按ずると牢くあるいは痛みます。その病は、喘咳し・洒淅して寒熱します。このような状態のものは肺です。もしこのような状態のものでないものは違います。

腎脉を得た場合、その外証は、顔色が黒く・善く恐れ・欠します、その内証は、臍の下に動気があり、これを按ずると牢くあるいは痛みます。その病は、逆気し・小腹急痛し・下重のように泄し・足の脛が寒えて逆します。このような状態のものは腎です。もしこのような状態ではないものは違います。





十七難に曰く。経に、病気になって死ぬものがあり、治療しなくとも癒えるものがあり、また長い年月にわたって癒えないものがあるとあります。その死生存亡を、脉診をすることによって知ることができるのでしょうか。

然なり。全て知ることができます。

診察している時に、目を閉じて人を見ようとしないものは、肝脉で強急で長という脉状を呈しているべきです。けれどもこれに反して肺脉で浮短で濇という脉状を呈するものは死にます。

目を開いて渇し心下が牢い病人の脉状は、堅実で数を呈しているべきです。これに反して沈濇で微を呈しているものは死にます。

吐血し衄血する病人の脉状は、沈細を呈するべきです。これに反して浮大で牢の脉状を呈するものは死にます。

譫語し妄語する病人の身体には熱があるべきであり、その脉状も洪大を呈するべきです。けれどもこれに反して手足が厥逆し沈細で微の脉状を呈するものは死にます。

腹が大きく泄する病人の脉状は、微細で濇を呈するべきです。これに反して緊大で滑の脉状を呈するものは死にます。





十八難に曰く。脉には三部があり、部には四経があり、手には太陰・陽明があり、足には太陽・少陰があり、これを上下の部とするとはどういう意味なのでしょうか。

然なり。手の太陰・陽明は金であり、足の少陰・太陽は水です。金は水を生じ、水は流れ下行して上ることができませんので下部にあります。足の厥陰・少陽は木であり、手の太陽・少陰の火を生じます、火炎は上行して下ることができませんので上部とします。手の心主・少陽の火は、足の太陰・陽明の土を生じます、土は中宮を主りますので中部にあります。

これは五行の子母関係によって、互いに生じ養うものです。

脉診には三部九候診がありますが、各々どの部位がこれを主るのでしょうか。

然なり。三部とは寸関尺です、九候とは浮中沈です。上部は天に法り、胸から頭にかけて病があることを主ります。中部は人に法り、鬲から臍にかけて病があることを主ります。下部は地に法り、臍から以下足にかけて病があることを主ります。

審らかにしてこれを刺します。

沈滞して長期にわたって積聚している病人がいますが、脉診によってその理由を知ることができるのでしょうか。

然なり。診察して、右脇に積気がある場合は、肺に結脉が出ています。この結脉が甚だしい時は積気も甚だしく、結脉が微しのときは積気も少しです。

診察して肺に異常な脉を触れないのに、右脇に積聚があるのはどうしてでしょうか。

然なり。肺に異常な脉を触れなくとも、右手の脉が沈伏しているはずです。

外部の痼疾も、同じ方法によって診ることができるのでしょうか、異なるのでしょうか。

然なり。結脉とは脉が去来する時、ときどき止まって一定の流れ方をしないものを結と名づけています。伏脉とは脉が筋の下を流れるものです。浮脉とは脉が肉上にあって流れるものです。左右表裏の診法も皆なこれと同じです。

その脉状が結伏していながら内に積聚がなかったり、その脉状が浮結していながら外に痼疾ない場合や、積聚がありながらその脉状は結伏していなかったり、痼疾がありながらその脉状は浮結していないような場合は、脉状が病と対応せず、病が脉状と対応していません。これを死病とします。



一元流
難経研究室 前ページ 次ページ 文字鏡のお部屋へ