難経原文 七



五十五難に曰く。病には積があり聚がありますが、どのようにしてこれを区別するのでしょうか。

然なり。積は陰気であり、聚は陽気です。ですから陰は沈んで伏し、陽は浮かんで動じます。

気の積む所を積と名づけ、気の聚まる所を聚と名づけます。ですから積は五臓から生ずる所のものであり、聚は六腑から成る所のものです。

積は陰気です。その始めて発する場所に常所があります、その病はその部位を離れず、上下に終始する場所があり、左右に窮する所があります。聚は陽気です。その始めて発する場所に根本はなく、上下に留止する所がなく、その痛む場所に常所がありません、これを聚と言います。

ですからこのようにして積と聚とを区別し判断していくのです。





五十六難に曰く。五臓の積にはそれぞれ名前があるのでしょうか。どの月どの日に積を得るのでしょうか。

然なり。肝の積を名づけて肥気と言います。左脇の下にあり、覆盃のようで、頭と足とがあります。長期にわたって癒えなければ、その人に咳逆や瘧を発せしめ、連歳にわたって癒え難くします。季夏の戊己の日にこれを得ます。どうしてかというと、肺病は肝に伝わり、肝病は脾に伝わります。脾は季夏の時期に王します、王するものは邪を受けませんので、肝は復び肺に還そうとしますが、肺は簡単には受け入れません、ですから留結して積となります。このことから、肥気は季夏の戊己の日にこれを得るということがわかります。

心の積を名づけて伏梁と言います。臍上に起こり、臂のような大きさで、上って心下に至ります。長期にわたって癒えなければ、その人を煩心の病にします、秋の庚辛の日にこれを得ます。どうしてかというと、腎病は心に伝わり、心は肺に伝えようとします。肺は秋の時期に王します、王するものは邪を受けませんので、心は復び腎に還そうとしますが、腎は簡単には受け入れません、ですから留結して積となります。このことから、伏梁は秋の庚辛の日にこれを得るということがわかります。

脾の積は名づけて痞気と言います。胃脘にあり、盤のような大きさで覆っています。長期にわたって癒えなければ、その人の四肢が収まらず黄疸を発し、飲食しても肌膚にはなりません、冬の壬癸の日にこれを得ます。どうしてかというと、肝病は脾に伝わり、脾は腎に伝えようとします。腎は冬の時期に王します、王するものは邪を受けませんので、脾は復び肝に還そうとします、肝は簡単には受け入れません、ですから留結して積となります。このことから、痞気は冬の壬癸の日にこれを得るということがわかります。

肺の積は名づけて息賁と言います。右脇下にあり、杯のような大きさで覆っています。長期にわたって癒えなければ、洒淅寒熱・喘咳・肺壅を発します、春の甲乙の日にこれを得ます。どうしてかというと、心病は肺に伝わり、肺は肝に伝えようとします。肝は春の時期に王します、王するものは邪を受けませんので、肺は復び心に還そうとします、心は簡単には受け入れません、ですから留結して積となります。このことから、息賁は春の甲乙の日にこれを得るということがわかります。

腎の積を名づけて賁豚と言います。少腹から発し、上って心下に至り、豚のような状態で、時刻と関係なく上ったり下ったりします。長期にわたって癒えなければ、その人に喘逆・骨痿・少気といった症状を起こさせます。夏の丙丁の日にこれを得ます。どうしてかというと、脾病は腎に伝わり、腎は心に伝えようとします。心は夏の時期に王します、王するものは邪を受けませんので、腎は復び脾に還そうとします、脾は簡単に受け入れません、ですから留結して積になります。このことから、賁豚は夏の丙丁の日にこれを得るということがわかります。

これが五積の要法です。





五十七難に曰く。泄には幾つかあります。その全てに名前があるのでしょうかないのでしょうか。

然なり。泄には五種類あり、その名前も異なっています。胃泄・脾泄・大腸泄・小腸泄・大瘕泄があります。これを名づけて後重と言います。

胃泄は、飲食が化さず色が黄色です。

脾泄は、腹部が脹満し泄注し、食すれば嘔吐し逆します。

大腸泄は、食し終わると窘迫(きんはく)する〔訳注:ひどく困窮する〕ものです。大便の色は白く、腸鳴し切痛します。

小腸泄は、溲し〔訳注:小便をし〕膿血便をし少腹が痛みます。

大瘕泄は、裏急後重します。何回も圊に行きますが排便することができず、莖中が痛みます。

これが五泄の要法です。





五十八難に曰く。傷寒に幾つかあります。その脉状にも変化があるのでしょうか、ないのでしょうか。

然なり。傷寒には五種類あります。中風・傷寒・湿温・熱病・温病です。そしてその苦しむ所はそれぞれ異なっています。

中風の脉は、陽は浮で滑、陰は濡で弱です。湿温の脉は、陽は浮で弱、陰は小で急です。傷寒の脉は、陰陽ともに盛で緊濇です。熱病の脉は、陰陽ともに浮で、これを浮かべると滑、これを沈めると散濇です。温病の脉は、諸経に行在します、どの経が動ずるかはわかりません。

それぞれその経のある所に従ってそれを取ります。

傷寒の病で、発汗させることによって癒え、下すことによって死ぬものがあります、また逆に、発汗させることによって死に、下すことによって癒えるものがあります。これはどうしてなのでしょうか。

然なり。陽虚陰盛のものは汗を出させることによって癒えます、これを下せば死にます。陽盛陰虚のものは汗を出させると死にます、これを下せば癒えます。

寒熱の病状を候うにはどうすればよいのでしょうか。

然なり。皮が寒熱すると、皮を席に近づけることもできなくなり、毛髪が焦げ鼻は槁して汗が出ません。肌が寒熱すると、皮膚が痛み唇舌が槁れて無汗になります。骨が寒熱すると、病者は安らぐこともできなくなり汗が休みなく注ぐように出、歯本が槁れて痛みます。





五十九難に曰く。狂癲の病はどのようにしてこれを弁別するのでしょうか。

然なり。狂疾の起こり始めは、臥すことが少なく、飢えず、自らの賢を高くし、自らの智を弁じ、自らを貴いものとします、妄りに笑って歌楽を好み、妄行して休むことがないものがこれです。癲疾の起こり始めは、意を楽しまず僵仆して直視します。

その脉状は、三部の陰陽ともに盛なものがこれです。





六十難に曰く、頭心の病には、厥痛と真痛とがありますが、これはどのような意味なのでしょうか。

然なり。手の三陽の脉が風寒を受け、伏留して去らない場合は、厥頭痛と名づけます。入って脳に連在する場合は、真頭痛と名づけます。

五臓の気が侵されたものを厥心痛と名づけます、その痛みは心だけにあって非常にきついものです、手足が青くなるものは真心痛と名づけます。

真心痛は旦に発して夕べに死に、夕べに発して旦に死にます。





六十一難に曰く。経に、望んでこれを知るを神と言い、聞いてこれを知るを聖と言い、問いてこれを知るを工と言い、脉を切してこれを知るを巧と言うとあります。これはどのような意味なのでしょうか。

然なり。望んでこれを知るとは、その五色を望み見ることによってその病を知るということです。

聞いてこれを知るとは、その五音を聞くことによってその病を弁別するということです。

問うことによってこれを知るとは、その欲する所の五味を問うことによって、その病の起こる所やその病のある所を知るということです。

脉を切してこれを知るとは、その寸口を診てその虚実を視ることによって、その病を病んでいる原因がどの臓腑にあるのかを知るということです。

経に、外をもってこれを知るものを聖と言い、内をもってこれを知るものを神と言う、とありますが、それはこの意味です。





六十二難に曰く、臓には井栄兪経合と五種類ありますが、腑にだけは六種類あるのはどういう意味なのでしょうか。

然なり。腑は陽です。三焦は諸陽を循りますので、ここに一つの輸穴を置いて原と名づけているのです。

腑に六種類ありますけれども、これは三焦とともに一気として考えます。





六十三難に曰く、十変に、五臓六腑の栄合は全て井を始めとしているとありますが、これはどうしてなのでしょうか。

然なり。井は東方であり春です。万物が始生する所です、諸蚑は行き、喘は息し蜎は飛び、蠕は動きます。生ずべきのものは皆な、春に生じます。

ですから年の数は春に始まり、日の数は甲に始まるのです。

ですから井を始めとするのです。



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