一元流鍼灸術へ

懸賞論文:随時募集中



目的:東洋医学を、四診に基づく養生医学として構築しなおすための理論を蓄積することを目的とします。

方法:先人の理論を乗り越えあるいは破砕し、よりリアリティーをもったものとして奪還すること。新たに構築したものでも構いません。

■参加方法■

■一元流鍼灸術ゼミナールの会員は一論文につき五千円を添えて提出してください。

■一般の方は一論文につき一万円を添えて提出してください。

■文体は自由ですが、現代日本語に限ります。

■TXTファイルかPDFファイルで提出してください。

■選者は、疑問を明確にし文章を整理するためのアドバイスをします。

■未完成なものでも構いません。何回かにわたって完成させるつもりで、
   出していただければ、その完成へ向けて伴走をさせていただきます。







懸賞金

■特別賞:十万円

■優秀賞:一万円

選者:伴 尚志

送付先:ban1gen@gmail.com

受賞論文は、一元流のホームページに掲載します。

各賞の受賞本数は定めません。

適宜賞を追加することがあります。



始まりの時



東洋医学は、先秦時代に誕生し、漢代にまとめられ、人間学、養生医学として現代に伝えられています。天地を一つの器とし、人身を一小天地と考えた天人相応の概念を基礎とし、それをよりよく理解するために陰陽五行の方法を古人は生み出しました。臓腑経絡学は、あるがままの生命である「一」天人相応の「一」を実戦的に表現した、核となる身体観となっています。

天地を「一」とし、人を小さな天地である「一」とするという発想が正しいか否かということは検証されるべきところです。けれどもこれは東洋思想の基盤である「体験」から出ているということを、押さえておいてください。

この「一」の発想は、古くは天文学とそれにともなう占筮からでています。また、多くの仏教者はこのことを「さとり」として体験しています。そして多くの儒学者の中でも突出した実践家である王陽明は明確に、「万物一体の仁」という言葉で、この「一」を表現しています。

ですので、この「一」の視点は、思想というものを支える核となる体験を表現しているものです。これは、ひとり支那大陸において思想の底流となったばかりではなく、日本においても神道―仏教(禅)―儒学(古義学)を貫く視座となっています。


視座とは、ものごとを理解し体験するための基本的な視点の位置のことです。東洋思想の真偽を見極めるためにはこの「視座」を得る必要があります。それは、真実を求めつづける求道の精神を持ち続けることによって得るしかありません。このように表現すると何か古くさい感じがしますが、実はこれこそ、科学的な真理を求める心の姿勢そのものです。

この心の位置を始めにおいて、我々はまた歩き始めます。東西の思想や医学を洗い直し、新たな一歩をすすめようとしているわけです。

医学や思想の基盤を問うこと、ここにこの勉強会の本質は存在します。

体験しそれを表現する。その体験の方法として現状では体表観察に基づいた弁証論治を用い、臨床経験を積み重ねています。それを通じて浮かび上がってくるものが、これからの臨床を支える基盤となります。いわば今この臨床こそが医学の始まりの時です。

我々の臨床は自身のうちに蓄積された東西両思想、東西両医学の果てにあるものですが、その場こそがまさに思想と医学が再始動する場所なのです。

臨床において我々は、何を基礎とし、何を目標とし、何を実践しているのでしょうか。この問いは、古典をまとめた古人も問い続けた、始まりの位置です。この始まりの問いに対し、再度、向き合っていきましょう。


論文は気づきの礎



論文とは何かというと、自分の中に気づきを与えてくれるものであると、私は考えています。

文体や構成の中に論文があるのではなく、それを書き上げた人の志が貫かれ、自分自身を含めた人の心に気づきを与えるものということです。

気づきとは、自分自身を乗り越えることで始めて得ることができる感動です。

年をとればとるほど、経験をつめばつむほど。自信があればあるほど、この気づきの機会を失っていきます。これまでと同じ道を歩き、同じ考え方をし、同じ感覚で物事を見るようになるためです。いわゆる成功体験で自らを滅ぼすことになるのがこれです。

そういう意味で、自分が感じる失敗というのは大切です。自信がないということ、わからないということは気づきの大きな種となります。

これは、人生を送るということでもそうなのですが、体表観察をするという、その一点においてもそうです。


勉強会では診るということに焦点を置いています。そして脉診や腹診や経穴診といった、ひとつひとつの体表観察を行うことによって、それぞれの診察位置で診ることを探究していこうとしています。その際、他の方法、たとえば脉診をしているときに問診をしたり、背候診をしているときに腹診をしたりということはしないようにします。それぞれの体表観察が粒だつことで始めてみえてくる、全体への違和感があるためです。

違和感。疑問。それが新しい気づきの種となります。最初から統合してしまうと、その違和感を見逃してしまいます。新たな気持ちで相手を診ているつもりでも、自分の中でパターン化したものを相手に投影してしまっているためです。これは臨床に自信がある人がよく陥る罠です。自分を正当化しすぎるために、相手を見ることをおろそかにしてしまうわけです。そしてパターン化することで手抜きをすることになるわけです。

この同じことが書物を読むということでも起こります。

自分が理解していることを書物に投影し、わかっているところだけを読んでしまう。そのため、著者が言いたかった大切なことを見逃すわけです。『一元流鍼灸術の門』を毎年最初から読んでいるのは、そのためです。新たな気持ちで物事に取り組むという、その新たな気持ちになれるかどうか。そこが自分自身の思いこみに気づき、理解を深めることができるかどうかに深く関わってきます。その新たな気持ち。無知である自分をあらためて知るということ。そこが大切なことになるわけです。

古典を読むということにおいても同じことが言えます。

思いこみで古典を読んでしまう。書かれていることを理解しようとするのではなく、自分が欲しい情報だけを抜き出す。自分が現在知っている概念だけを抜き出し、そのパターンに古典を当てはめる。そういうことを古典解釈と称している人々がいることを私は知っています。それは古典を読んでいるのではなく、自分自身の思いこみを古典の言葉で補強しているだけです。

何が書かれているのか、何を言おうとしているのか、初心になって考えていく。そこが大切です。


今回論文を書くという体験をされた方は理解できるかもしれません。自分自身が漠然と思っていたことでもまとめるということはたいへんなことです。そして、自分自身が正しいと思ってしていることであっても実は矛盾だらけだったりします。まとめてみて始めて、自分自身の中の矛盾に気づかれた方もあるでしょう。そして物事の理解の不十分さにめまいしたことでしょう。

自分自身というものは矛盾だらけです。そして場当たり的に惰性で生きているものです。自らパターン化した人生を送り、人生を理解したと思いこみ、それに満足して死んでいきます。若い頃にしか成長できない理由は、その後の人生がパターン化された自分の内面を生きているに過ぎないことが多いからです。

そこを越えていく力のことを、気づきと呼んでいるわけです。このきづきを得るために論文を書いていくわけです。論文というとかしこまってしまうようであれば、文章をまとめてみるといってもいいでしょう。

一歩一歩、自分を乗り越えていく。そのためには自分自身の今を理解しておく必要があります。そのためにまとめてみる。そしてそれを初心にかえって外から眺めなおすことによって、さらなる気づきの道が開けてきます。論文を書くということのおもしろさはここにあるのだと私は考えています。


一元流鍼灸術ゼミナール
代表 伴 尚志


メイルの宛先はこちらです→ban1gen@gmail.comPost
お問い合わせは伴 尚志まで







一元流鍼灸術へ