論治というのは、全体を踏まえ、弁証という現時点での症状の分類と、病歴という時間の流れの交差の中で病因病理を考察し、さらに治療手段として取りうるもの(鍼灸や、漢方薬)を、どのように施術し、何を服用するかによって、どうすれば主訴に対して、もっとも短時間で、効果的な治療となるかを考えていくためになされています。
治療に向かうために、気一元のそこに生きて存在している身体を理解しようと、陰陽という観点から見、五行という観点からふたたび見、さらには、それらが詳細に展開され詳述されていく状況を見てきました。そのように人体を詳細に分析的に考察した後、ふたたび立ち返る地点が、そこに生きて存在している人間そのもの、気一元の身体そのものを観るという観点です。
つまり、歴史があり関係をつないで今目の前に生きて存在している一人の人を、よく理解するための道具として分析が存在しているにすぎず、ふたたび一元の気の光の下にその人の存在をよりよく有らしめようとする行為が、治療というものであるということです。
時間的経過のどの段階で問題が生じたのか、あるいは、生活習慣の中で徐々に問題が生じたのか。これを見極めることがたいせつです。そして、その問題はどこに中心があるのか。あるいは、どのような複雑な関係の中で生じているのか、その場所を特定することがたいせつです。
今、目の前に生きているわけですから、そこには充分な生命があるわけです。その生命を、よりよりよい状態にもっていくにはどうすればよいのか、それを考えるために、東洋医学の伝統の中から汲み出されたものが一元流鍼灸術であると言えましょう。
気一元より発し、気一元に帰する。そこに要諦があります。
悪化傾向にある場合は少しでもそれをとどめる方策を見つけ、よくなっている方向にある場合は、それを推進する方法を見つけます。
虚が中心であればそれを補い、実が中心であればそれを瀉しますが、すでに疾病を抱えている場合には、実の裏には必ず虚が隠れているとみて、虚を補いながら実を取り除いていくということが基本になります。
どう見ても元気で実実であるという場合は、これは気を丹田に納める力が不足しているために疾病を抱えているのであるなどと判断していくわけです。
また、人の身体には丹田という中心があり、そこに気を集めるということがその一元の気の生命力を高めていく基本となります。ですから、非常に虚した患者さんの場合には、気を散じないように治療した後、丹田に気を納めるように気を配ります。
|
|