下焦精蔵 第十二節 父精生胎




人身が胚胎するということは、一滴の精液が子宮に凝って生【原注:な】るものです。その胎は、男の精によるものであって、女の精は胎となることはできません。男女が交接している間は、女子の感気が専らであって、子宮の門戸が開発された時に男の前陰が深く至って子宮の中に直接射すれば、精気がよく子宮に納められて胎を生じます。

女の精が一度精室を出て陰戸(いんこ)湧溢(ゆういつ)しているわけですから、どうして再び自分の子宮に帰り入ることがあるでしょうか。もし再び自己の子宮に帰り入ることがあったとしても、その精気は怯弱(きょじゃく)で〔訳注:弱ってしまっているので〕胎をなす勢いはありえません。

けれども馬玄台はこの深い理に達しないまま《上古天真論》に注して、《易》にいわゆる、『男女の精が(まぐ)あわせることによって万物が化生する』と述べられていることを用いて、男女の両精がともに子宮に入って胎をなすと述べていますけれども、これは誤りです。







《易》に『男女の精を媾あわせる』とあるのは、男女の感気を指して言っているのであって、陰精の意味ではありません。人身が胚胎する元が男精が原因であるという理由は、以下の文によります。

《天然篇》に、『黄帝が岐伯に問いて曰く。願わくば人の生の始まりについて聞かせてください。何の気がその基を築き、何が立って楯となり、何を失って死に、何を得て生まれるのでしょうか。岐伯曰く。母を基とし、父を楯とします云々。』とあります。これはいわゆる乾元が(たまわり)て〔訳注:贈って〕始まり、坤元が(たまわり)て〔訳注:もらって〕成るということです。乾は父、坤は母です。乾に始まると言い、坤に成ると言います。これもまた父の精に原因があるとみるべきです。たとえば草木のようなものは、必ず種があって地に施されます。その始まるところは種にあり、その成るところは地に養われるところにあります。その種とは父の精であり、その地とは女子の子宮です。

人身も万物の道も、天陽が施して地陰に成るものです。ですから胚胎の始まりの資て生ずるところは、父の精だけです。人の習俗として氏を継ぐものは、母の氏に従うのではなく、父家の氏を継ぐということも、またこのことによるわけです。



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