下焦精蔵 第二十一節 胎向母




母胎内にある児は、母の背に向かって相対しているものです。俗に、児は母と同じく腹の方に向かって位置し、内にあって母の乳房を咥えて乳汁を飲むと言われているのは誤りです。

乳汁は水穀の液です。もし母の腹で乳液を吸うようなことがあるならば、その子は母の腹の中で二便をすることになります。もし二便をしているなら、母の水道にその子の大便も混じって出てこなければなりません、けれども古今これまで母の水道に子の大便が漏れているということを聞いたことはありません。この論は非常な誤りです。子が産まれ出た後は、すぐに黒便をして糞のようなものを出します。俗に言うカニババです。これは母の腹で飲食したものが出ているわけではなく、胎育されている〔訳注:母胎の中で養育されている〕十月の間に蓄った、臓腑の中の穢濁を下し出したものであって、飲食をしてできた大便ではありません。







であれば、胎孕中(たいようちゅう)〔訳注:たいようちゅう:母胎の中で養育されている間〕はどうやってその児は養育されているのでしょうか。ただ母の血気水穀の精によって、臍帯を通じて養われているのです。たとえば瓜が蔓で養われているようなものです。根と瓜との間は遠く離れていますけれども、細い蔓を伝わって養われています。その精力が通いさえすれば養われるわけです。植物は無情ですから、その果実を養う際に蔓で隔てられていても育てることができます。人は万物の霊であり有情の最たるものですけれども、胎中の十月の間は無情で草木と異なることはありません。ですから臍帯で精力を外から通じさせてこれを養っているわけです。

産後は九竅が自然に開いて有情の人となるため、乳哺飲食して内からこれを養います。内から養うと、二便が必ず出るものです。児が胎孕中に乳を吸わないことはこのことからも明らかです。

また(はら)んで九十月に至ると、児の身体がしっかり具わってきますので、母の腹においてその児が啼くことがあるようだといわれます。けれども、これもまた右の弁と同じく、出産されていない間は無情であり、植物のようなものです。もしそれが啼くほどに心を発するようになっているのであれば、必ず出産すべきであることは、疑問の余地がありません。



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