上焦神蔵 第五節 五志




五臓に五志があります。肝の志は怒、心の志は喜、脾の志は思、肺の志は憂、腎の志は恐とします。その本を推し求めるならば、五志は七情とともに神気の発動によって出るものです。

どうしてかというと、五臓がそれぞれその志を分けて主っていると、恐れているときに怒気が起こり、喜んでいるときにも憂いの情が出てこなければなりません。けれども人というものは、喜んでいるときには憂いはなく、怒っているときには恐れる情がないものです。それは、神気がその情に向かって〔訳注:集中して〕いるためです。たとえば手で物を持つようなものです。一つのものを握っているときは他の物をさらに持つことができません。怒っているときには神はその怒りに向かい、喜んでいるときには神はその喜びの情に応じます。神気が応じ向かう方向が一つであるため、喜びの最中には憂いが起こらず、怒る最中には恐れる情が出ることがないわけです。

そういうことであれば、五臓が五志を分けて主るという説は、聖人が虚名を立てるようなもの〔訳注:聖人であるにもかかわらず、根拠の薄弱な言葉を発しているようなもの〕です。けれども、五行は五臓に配されるため、五臓にはそれぞれに主る所、発する位置があるのです。







肝は木に属し、木は春に応じて発生する勇猛の気です。《霊蘭秘典論》に『肝は将軍の官であり、謀慮が出るところです』と述べられています。肝木はその発生において勇猛の勢いに従い、怒気を発します。人が怒るときには、気逆して呼吸が激しくなり、目を見張り、怒りが極まると顔が青くなります。これらはすべて肝木の勇猛の気色に応じている物です。ですから聖人はこれを見て、肝の志とするわけです。

心は火に属します。火の性は散じて開きます。人の喜びというものは、気が開いて散ずることによって生じます。ですから聖人はこれを見て、心の志とするわけです。

脾は土に属します。土は中宮に位置して四方に応じます。人の思いというものは、四方の事柄を集めて抱くことによって生じます。ですから聖人はこれを見て、脾の志とするわけです。

肺は金に属します。金は収斂粛殺し、物を痛めます。人の憂いというものは、その気が収斂して痛むことによって生じます。ですから聖人はこれを見て、憂いを肺の志とするわけです。

腎は水に属します。水はよく順下して低い場所に降ります。人の恐れというものは、その気が下に陥るものです。ですから聖人はこれを見て、恐れを腎の志とするわけです。







けれどもその五志すべてが属するところは一つの神気です。このため五志七情は、五行の気象〔訳注:性格〕に応じて、それぞれ分けて主るところがあるとは言っても、これを総べるものは神気とするのです。

怒はその本は神気の激から発して、その標は肝木逆上猛悍の勢いに及びます。喜はその本は神気の緩から発して、その標は心火の開散の勢いに及びます。思はその本は神気の結から発して、その標は脾土の四方に寄せ応じるものに及びます。憂はその本は神気の収から発して、その標は肺金の収斂殺痛の気に及びます。恐はその本は神気の陥から発して、その標は腎水が下って升らないものに及ぶわけです。







五志を五臓に配するものは標です。五志のすべてが神気に属するというのはその本を知る〔訳注:理解している〕ものです。であれば、五志五情の大過によって病むものを、ただその主る所の臓位だけを治療して治ることはありえないということになります。たとえば、怒りの大過によって病んだようなものを、怒は肝がこれを主るとしてこれを取り、ただ肝だけを治療して治るものでしょうか。

そもそも五志五情の病はその神を治療することを主として、兼ねてその志の及ぶところである臓位を治療するものです。たとえば、怒ることが大過で病となったものは、まず神を治療することを主として、それに兼ねて肝を治療します。憂うことが大過で病となったものも、まず神を治療して、それに兼ねて肺を治療します。

今の人はこの理を理解していないので、五志はただ五臓が主る所とだけ思っているため、怒りに傷られていれば肝だけを治療し、憂いに傷られていれば肺だけを治療しようとしますが、愚かなことです。



一元流
医学三蔵弁解 前ページ 次ページ