上焦神蔵 第十四節 病似無神虚




世の病者を見ると、気血精の虚証は多いのですけれども、神虚の病証が少ないのはどうしてなのでしょうか。







神は全身の主人です。ですから諸邪が神を犯したとしてもすべて心包を犯し、本の心神が傷られることはありません。もし本の心が病んで神が虚すると、必死の症〔訳注:必ず死ぬ病気〕となります。《邪客篇》に、『心は五臓六腑の大主、精神の舎るところです。その臓は堅固で邪気を容れることがありません。もし邪気を容れるときは、心が傷られています。心が傷られると、神が去り、神が去ると死にます。ですから諸邪が心にあるということは、心の包絡にあるということなのです。』と述べられています。

このことから、世に心の病と言われているものはすべて包絡の病であり、神虚の症というものはただ神気が疲れているだけのこととされているわけです。どうしてかというと、本の心は邪を受けず、もし本の心が病んだ場合には必ず死ぬとされているからです。

また神は全身の主人ですから、神が虚すると生を保つことができなくなります。ですから、気血精の虚証は多いのにもかかわらず、神虚の証は稀なのです。

気血精が虚するものは、あるいは薬力でこれを補うことができますけれども、神が虚すると人参や黄耆の類でも補うことができません。真心痛や真頭痛の類はすべて邪気が直接神を搏つ必死の証とし、治法がありません。《内経》では神を太陽にたとえています。上古の昔から、太陽が欠けたり傷られたりすることはありません。もし太陽が欠けたり傷られたりすることがあれば、天地万物が敗られてしまいます。《霊枢》に『神は堅固なので、邪気を容れることがありません。心が傷られるときは神が去って死にます。』と述べられているのは、このことを言っているのです。



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