上焦神蔵 第十五節 陰陽有余不足




虚証には二種類あります。陰と陽の虚証です。陽虚とは、気と火の虚です。陰虚とは血と精の虚です。今これを考えてみると、陽虚のものがあり陰虚のものがあって、陰陽がそれぞれ虚しています。けれども丹渓〔訳注:しゅたんけい:朱丹渓:金元の四大家の一人で滋陰降火を唱える:1281年~1358年〕は、「陰不足、陽有余」と言っていますし、張氏〔訳注:張景岳:明末清初:易水学派:1563年~1640年〕は《類経》で「陰有余、陽不足」と言っています。この二論には雲泥の差があります。どうしてなのでしょうか。







陰陽において有余と不足とがあれば、すでに常道ではありません。けれども二氏が論じているところの、あるいは有余あるいは不足ありというものは、実は有余や不足があるわけではないのです。丹渓が言っている陽有余陰不足というものは、生じやすいか否かで言っているものです。張氏が言っている陽不足陰有余というものは、欠けやすいか否かで言っているものです。

生じやすいか否か、欠けやすいか否かというものは、何のことを言っているのでしょうか。陽は無形の気、陰は有形の物です。無形の気は、生じやすくて満ちやすく、また欠けやすく減りやすいものです。有形の物は、生じにくくて満ちにくく、欠けにくく減りにくいものです。たとえば一つの紙袋に息を吹き込むと、紙袋はすぐにふくらみます。これは無形の気は生じやすく満ちやすいということです。もし息を満たした紙袋に小さな穴でも開ければ、袋の中の気はあっというまに泄れて減り虚してしまいます。これは無形の気は欠けやすく減りやすいということです。

丹渓が述べているところの陽有余とは、その生じやすく満ちやすいことを言っているものであり、張氏が述べているところの陽不足とは、その欠けやすく減りやすいことを言っているものです。

また陰の形があるものは生じにくく欠けにくいとは、右の無形の気が生じやすく満ちやすく欠けやすく漏れやすいということを参考にして理解してください。たとえば草木 人の胎 禽獸 虫魚の類は、一時や一刻の間にその形を生じるわけではありません。時を重ね月を積んで徐々に徐々にその形が備わっていくものです。その形がすでに極まると、一時や一刻の間にこれが減り失われることはありません。時を重ね月を積んで徐々に徐々にその形が朽ちて滅んでいきます。これは有形の陰は生じにくく欠けにくいということではないでしょうか。丹渓が陰不足と言っているのはこの生じにくいことを言っているのであり、張氏が有余と言っているのはこの欠けにくいことを言っているものです。ですから、両氏の論はともに理のあるところなのです。







陰陽の常道において実は有余や不足があるわけではありません。けれども丹渓は陽有余 陰不足の論を《礼記》に法って、『男子は三十 女子は二十で嫁にいき、男子は六十四歳で陰精が衰え、女子は四十九歳で月経が絶するわけですから、人身の陰気は三十年で早くも衰えてしまいます。』と述べています。このように考えると、陰は欠けやすいように思えますけれども、男の泄精 女の月経は日々月々行なわれることであって、泄れることが非常に多いものです。陰がほんとうに欠けやすいのであれば、どうして三十年もの間保つのでしょうか。日々月々たくさん泄らしていても、欠けにくい陰だからこそ三十年もの日月保つのです。

また陽は無形の気 陰は有形の精です。無形の気は足しやすく、有形の精は足しにくいものです。ですから陽気は欠けやすく虚することが多いわけですけれども、水穀の精気でその虚を充足させることができます。陰精の虚も水穀の精気を用いて養うことはできますけれども、完全に充足させることは不可能です。このため世に、気虚は少なく陰虚は多く、気虚は補いやすく陰虚は治しにくいと言われているのです。

また張氏は、「春夏は陽で万物は生長し、秋冬の陰で枯れますから、陽の気は弱く陰に負けます。また動と温と気とはすべて陽です。静と冷と血と形とはすべて陰です。人が死ぬときにはまず気が去り温もりがなくなって動かなくなります。血は残り静かに冷めて形だけが留まります。これらのことは、陽は弱くて早く去り、陰は強くて残るということを示しているわけですから、陽は不足し陰は有余するのです。」と述べています。

けれども、この人身が死ぬときに、動と温と気とが先に去るのは、無形の欠けやすいものです、静かに血が残り冷めた形だけが留まるのは、有形の欠けにくいものです。また、春夏に生長した万物が秋冬に枯れるのは、陰陽に強弱があるわけではありません。物の生長は造りにくいので、徐々に徐々に生長するため見えにくく、生長した万物が敗れるのは、敗れやすく見えやすいためです。たとえば部屋を作る際に、すでにできあがった後はよく見えるわけですけれども、これを造作している間は非常に見えにくい物です。ですから、春夏の陽で生長する万物の気は強くとも弱く見えるものなのです。

またすでにできあがっている部屋が焼け落ちるときには、どんなに日月をかけて造営した宮室であっても、あっという間になくなってしまいます。これは傷れやすく傷れ方もはっきりしているということです。張氏であっても深くその生殺の道を窮め尽さないまま理を述べているようです。







そもそも生を殺すことは簡単であって、生を済け求めることはなしにくいものです。どうして陰を強いとし陽を弱いとするのでしょうか。陰陽の気力のどちらが強くどちらが弱いとするのでしょうか。どちらが勝ちどちらが負けるとするのでしょうか。

陰陽の気の力においては、もともと強弱の勝負は別にあってしかるべきです。また、もとより有余や不足といった区別などありえません。天地人身万物はすべて、陰陽に従います。これに有余不足や強弱の区別があったなら、造化の効能をなすことはできません。

ただ陽気は生じやすく欠けやすく、陰精は生じにくく欠けにくい。欠けやすいものは、欠けたときには生じやすく、欠けにくいものは、欠けたときには生じにくいものなのです。ですから気虚のものは、人参附子の類を用いると一時に補い済けることができますが、陰精が虚したものは、当帰地黄の類を用いて補っても、人参 附子のようにすぐにその効果を得ることはできないわけです。

このように二氏の論説はそれぞれに根拠がありますので、相方とも捨てにくいものです。無形のものは欠けやすく、有形のものは欠けにくい。これを終わりから見ると、陽不足 陰有余に見えます。無形のものは生じやすく有形のものは生じにくい。これを始まりから見ると、陽有余 陰不足に見えます。学ぶ者は深く求め詳に味わって理解するようにしてください。



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