附録 営衛三焦 第二節 営衛清濁




陰は濁で陽は清というのが陰陽の常〔訳注:通常の状態〕です。けれども《営衛生会篇》に『五臓六腑が気を受ける際、その清なるものを営とし濁るものを衛とします』と述べられています。これは陰陽の常道である清濁とは異なるように思えますけれども、実は異なりません。

王海蔵〔訳注:王履:朱丹渓の弟子:1332年?~1391年?〕が《此事難知》に営衛の清濁の理について解釈しています。その理は下に弁じるとおりです。

清なる物は上に位置して陽であり、火です。濁る物は下に位置して陰であり水です。その陽火は離であり、陰水は坎です。離は一陰が生じる位置、坎は一陽が生じる位置です。離の体は清であり、坎の体は濁です。ですから陽は濁中から生じ、陰は清中から生じるわけです。

天気は下降しますけれども、実は天の清が降ってくるわけではなく、清中の濁が降ってきます。それに従って清もまた導かれて下ります。ですから、下っている濁は天の清中から下っているものなのです。地気は上升しますけれども、実は地の濁が升っていくわけではなく、濁中の清が升っていきます。それに従って濁もまた導かれて升ります。ですから、升っていく清は地の濁中から升っているものなのです。

五月の夏至には陽気が至極して〔訳注:極まりきって〕一陰が生じて降り、十一月の冬至には陰気が至極して一陽が生じて升ります。

人の心腎もまたこのようなものです。心は火に属して陽臓であり、上に位置して血脉を生じます。腎は水に属して陰臓であり、下に位置して陽気を生じます。血は営であり、気は衛です。ここのところをよく理解しておいてください。清は濁から生じて清となり、濁は清から生じて濁となります。雨が天から降るのは清から濁を生じているものです。雲が地から升るのは濁から清を生じているものです。

水穀の気が胃から発する際、その清なるものから営を生じて濁となり、その濁なるものから衛を生じて清となるわけです。その水穀の気から言うと、清なるものから営を生じ、濁なるものから衛を生じます。これを営衛から見ると、営は濁であり衛は清です。ですから経に『その清なるものは営であり、濁なるものは衛であるとするときは、胃中から発する水穀の気から述べているものです』と述べられているわけです。







滑伯仁〔訳注:1304年~1386年〕の《難経本義》の注には『体用関係で清濁を弁別してみましょう。清気は営となり、濁気が衛となります』と述べられていますが、これは用〔訳注:機能〕について述べている言葉です。その心は、営は陰血でありもともと濁ですけれども、その用は清に属します。どうしてかというと濁陰は遅渋で運行しにくいものです。けれども陰に属する営血は、昼夜五十回運行するわけですから、清でなければなりません。これがすなわち営の体〔訳注:本体〕は陰に属して濁ですけれども、よく運行している用〔訳注:機能〕は清に属するということなのです。

このことからこれを見ると、営は濁中の清です。衛は陽気でありもともと清ですけれども、その用は濁に属します。どうしてかというと、衛は気でありもし清だけであれば、陽極となってしまいます。極陽は熱となり、温となることはできません。脉外をめぐって五十回の定数もあり得ません。ただ散越し飛揚してしまうだけです。けれども衛気は常に脉外をめぐり、静かに五十回の運行を〔訳注:営と〕同じようにしています。形が温であるということからみると衛の体〔訳注:本体〕は陽ですけれども、その用〔訳注:機能〕から考えると濁に属するわけです。

ですから用で言うときは、営は清であり衛は濁であり、その体で言うときは、営は濁であり衛は清である、ということになるわけなのです。







紀天錫〔訳注:金代:1175年《集注難経》著〕の説として『《素問》の痺論に、営は水穀の精気であり、衛は水穀の悍気であると述べられていますけれども、精【原注:くわ】しいものは、その気は従順です。悍【原注:たけ】きものは、その気は剛強です。従順なものは清く、剛強なものは濁ります。水は従順で内が清く、火は剛強で内が濁るようなものです。これが清なるものは営となり、濁なるものは衛となるという意味です。この清と濁とは、胃から発して営衛となろうとしているものについて述べています。すでに営衛となっているものは、清なるものが脉中に注いで濁となり、濁なるものは脉外にめぐって清となるわけです』とあります。

私が考えるに、王海蔵氏 滑伯仁氏 紀天錫氏の三説は、言葉は異なりますけれどもその理は一つに帰します。経に『清なるものは営とし、濁なるものは衛とします』というのは、水穀の気が胃から発して営衛となろうとしているもののことを述べているものです。紀天錫氏が説いているとおりです。ですから経に、『営は清、衛は濁とします』とは述べられずに、『清なるものは営とし、濁なるものは衛とします』と述べられているのです。二つの「し」の字によって理解してください。すでに営衛となった後は、営は濁で衛は清です。陽は陰から生じ、陰は陽から生じるということなのです。前の王海蔵氏が説いているものがこれです。営は清であり衛は濁であると直接見てしまうために、経に言うところの清濁の二字について多くの疑いを生じてしまったわけです。学ぶものは惑わないようにしてください。



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