附録 営衛三焦 第三節 営衛属気




《営衛生会篇》に『黄帝問いたまうに。何の気を営となし何の気を衛とするのでしょうか』と述べられています。思うに、営は先天の血であり、衛は先天の気です。《調経論》では直接、営血 衛気の文字が書かれています。ですから衛が気であると言えますが、どうして営を気と呼んでいるのでしょうか。

これは胃中から発する水穀の気から言っているものです。営衛ともに発する〔訳注:もととなる〕水穀の気です。その気は、先天の血の中に注ぐと営血となり、先天の気の中に行くと衛気となります。ですから営衛ともに水穀の気から出ているということから、何の気が営となり何の気が衛となるのかと〔訳注:黄帝は《営衛生会篇》で〕問いたもうたわけです。

血は有形であり気は無形です。水穀の気は無形ですから、無形の衛気を生ずることはわかります。どうして有形の血を生ずるのでしょうか。







たとえば漆器に人の息を吹きかけて、吹きかけられたところに露を生じるものは営です。どうしてかというと、口中から吹き出した息は、気であり無形です。これは水穀の気が胃から発したところの始めは、すべて無形のものであるということと同じです。漆器に息が留まって露を結ぶということは、水穀の気であっても脉中に注ぐと血となるということと同じことなのです。

煙は無形の気ですが、その始めは有形のものであり、煙が升ると無形の気となります。煙が物に留まると有形の(すす)を生じますけれども、その煙を留める物がないときには、煙の気は空中に升散して煤ができません。このことから、気は行くところに従って形となり気となるということが理解できるでしょう。

胃から発するところは水穀の気ですけれども、脉中に入ると有形の血となり、脉外に行くと無形の気となるわけです。煙の留まるところには煤を生じ、これを留める物がないときには、ただ気のまま升散してしまうことと同じです。ですから《難経》の紀天錫氏の注に、『精気が脉の中に入るときはすなわち濁となり、悍気が脉の外に行くときにはすなわち清となります』と述べられているのです。まことに深い心のある言葉です。



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