第一章 三焦心包有名無形論
第四節 心主は無形




門人がまた聞いて言いました。師が言われるとおりであれば、心主と三焦とは本来どのようなものなのでしょうか。







答えて言いました。心は神陽の気を蔵しています。陽気が心中に居したまま働かなければ、人身を生化することができません。そのためこの神陽の気は常に発動していて、全身に布き施して広く充ち働きます。この神陽の気が発して働くところを心主と名づけているわけです。ですから心主には形がないということが道理です。

心という元陽が発して働くところの徳用のことを心主と呼んでいるので、ただ気があるだけで形がないということは道理です。これを形があると見るならば、反って医道に害をなすことになります。もし形があると見るならば、心主と心という二つ〔訳注:の臓の形が必要〕になります。無形とすると、心と心主とは本来一つの気であって違いはないとすることができます。治療を行なう際にも、これは本来の心の治療これは心主の治療と、二つに分けなくていいわけです。〔訳注:あるいは「二つに分けることはありません」〕

さて張介賓はこれを心主と名づける理由を、本来の心が主る所だからとしています。これは心主が、心の外を包む脂膜という形があるものとして見ているためです。けれどもこの説は間違っています。右に弁じたように心陽〔訳注:原文のママ〕が働くところの徳用のことを心主とします。そして心はこの徳用を主としているため、心主と名づけられているわけです。

心主はまた心包絡とも言います。これも右に弁じたように、心陽が発して働くところの徳用を心主と言っているわけですから、心包絡とも言えるわけです。どうしてかというと、物の働きというものはおおむね外に発して動きます。心陽が発して働くところも外にあり、心を包み絡い、心に沿っています。心を離れて働くこともないわけですから、常に心を包み絡っているということではありませんか。

けれども滑伯仁はその《十四経発揮》で、心包絡というものは心の外を包み絡っている脂膜であるとしています。馬玄台や張介賓はともにこれに従って、心主 心包は形があるとしていますが、まったく間違っています。







《霊枢・邪客篇》に『諸邪の心にあるものは全て心の包絡にあります』と述べられていて、心包絡として別に形があるように見えますけれども、そうではありません。心の病というものは、すべて陽気の働きに対して起こるものです。痰や瘀血等の類の諸邪によって〔訳注:心陽の〕働きが妨げられて患っているのです。土器〔訳注:燈火をともしている器そのもの〕には問題はないけれども、燈火の光が物によって妨げられている感じです。ですから諸邪が心にあるというのは、本来の心臓が侵されているわけではなく、その神陽の気の働きが侵されているということです。そのことを『諸邪の心にあるものは全て心の包絡にあります』と述べているわけです。これを心包絡という形が別にあると見るのは大きな誤りです。後世あるいは心包という名前に拘わって、心は茶入れであり包絡は袋であるとたとえて、心臓を外から包絡している脂膜であるとしたり、心主は相火で、本来の心は君火であり、心包の相火が心の君火に代わって事を主るため心主と言われている等という説がありますけれども、これらはすべて誤りです。



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