第二章 腎間動気論




門人が聞いて言いました。前に論じた三焦の本は腎間の動気にあります。腎間の動気についての詳しい解釈を教えていただけないでしょうか。

答えて言いました。《八難》には『寸口の脉が平であるのに死ぬ者がいるのはどうしてなのでしょうか。諸十二経脉は全て生気の原に係わります、いわゆる生気の原とは、十二経の根本のことを言い、腎間の動気のことを言います。これが五臓六腑の本であり、十二経脉の根であり、呼吸の門、三焦の原です。一には守邪の神とも名づけられています。ですから、気は人の根本なのです。この根が絶するときはすなわち茎葉も枯れます。寸口の脉が平であるのに死ぬものがあるのは、生気が独り内で絶するからです。』と述べられています。

私は以前《難経諺解》を撰してこの概要を述べましたが、まだその奥旨には至っておりませんでした。今その詳解をしようと思います。







『寸口の脉が平であるのに死ぬ者がいるのはどうしてなのでしょうか。』

寸口とは寸位の脉だけでなく三部全てのことを言っています。《一難》で寸口を取って死生吉凶を決断すると述べられているわけですけれども、寸口の脉は平でことに死変の徴候が現れていないのに死ぬ人がいるのはどういう道理なのでしょうかと聞いているわけです。

『諸十二経脉は全て生気の原に係わります』 寸口の脉は手の太陰肺経の動です。総じて肺経に限らず諸十二経脉はすべて生気の原に係わりつながりがあります。寸口の脉が平であるのに死ぬ者は、この生気の原が絶えたことがその理由です。







『いわゆる生気の原とは、十二経の根本のことを言い、腎間の動気のことを言います。』

この生気の原とは何のことを言うのかというと、十二経の根本、腎間の動気のことを言います。

諸経脉は、上焦の宗気 中焦の営気 下焦の衛気の三気が循環するところです。この三気は三焦によってめぐります。三焦は腎間の動気の別使です。ですから諸十二経脉は腎間の動気を根本としています。天地の間の四季の往来や万物の造化は何によって行なわれているのかというと、冬至に来復した一陽の気によってなされています。この坎中の一陽は十二支で言うと子にあたります。人身の生化もまた、両腎の間の水中に含蔵されている一陽の気によってなされるものです。

そもそも私や人々が生じるのは、男女の両精が妙合したものなのですけれども、その種となっているものは父の一滴の精だけです。ですから《霊枢・天年篇》に『母を基とし父を楯とします』と述べられており、これを註解する者は稼穡(かしょく)〔訳注:穀物の植え付けと取り入れ〕にたとえて、『必ずその地を得て種を施します。地は基で母です。種は楯で父です。』と述べています。父の精だけから胞を生じるということは、この言葉からも明確に理解できます。

その父の精は単独では泄れません。男女が交会して男がその心に感じたとき、膻中が動じて精が下焦に泄れます。心陽の気が下焦に移り水中の陽気によって動じるわけです。その動によって泄精するため、精の中には自らの心腎が貫通した陽気が含蔵されます。これが妙合して胎を成す際、その〔訳注:父の〕神はその子の膻中に存し、その〔訳注:父の〕精は子の両腎精となり、含蔵された陽気の根〔訳注:父の精の中の心腎が貫通した陽気〕はその〔訳注:子の〕両腎の間に留まり続けて、私たちの生化をなします。これが腎間の動気です。実【原注:まこと】に人身の精気の源そのものではありませんか。ですから上文ではこれを名づけて生気の原と言い、下文ではこれを五臓六腑の本、十二経脉の根、呼吸の門と述べているわけです。

いやしくもこの腎間の陽気がなければ、五臓六腑も生化することができず、宗気 営気 衛気が十二経脉を循環することができず、呼吸の一万三千五百息も出入することができません。実【原注:まこと】に五臓六腑の水源 十二経脉の根元 呼吸の戸なわけです。

『三焦の原』については、腎間の陽気が別れて働いているものだとうことを、前の心主三焦有名無形の中で詳述しましたのでふたたび述べることはしません。







門人が聞いて言いました。人は腎間の陽気を生の原としているということは、実に明らかですが、内経においてもそうなのでしょうか。

答えて言いました。《霊枢・九鍼十二原篇》に『(こう)の原は脖胦(ぼつおう)〔訳注:気海穴〕に出る』と述べられています。《素問・奇病論》に『肓の原は臍下にあります』と述べられています。《甲乙経》に『気海は一名脖胦 一名下肓 臍下一寸五部に位置します』と述べられています。《素問・刺禁論》に『膈肓の上は中に父母があります。七節の傍らの中には小心があります』と述べられています。この言葉は、心は膈膜の上に位置していて心肺という父母があり、下焦の七節の中には小心があるという意味です。七節とは、人の脊骨の二十一節を下から逆に数え上げて七節、上から順に数えて十四椎の腎の位置です。この中に小さい心陽のような一気があるということです。【原注:本来の大心に対して小心と言っています】

これらはすべて《八難》で述べられている臍下腎間の陽気を尊主していることに通じます。



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