第十三章 五行論
第六節 五臓




一、五臓の成立

答えて言いました。上古の聖人はその洞察力をもって人身における五臓の位置を立てられました。その初意〔訳注:最初の思い〕を考えてみましょう。

天地万物はすべて始めは水から生じます。ですから人身においても、一滴の精が凝ってこの形体を生じます。精は水です。水だけであれば陰だけなので形ができることはありません。ですから精の中には必ず自然に一つの陽気が備わっています。これがすなわち神です。天一が水を生じ、地二が火を生じて、水中には早々に火が備わり、水火が離れることがないということが、天然の常理〔訳注:もっとも基本的な法則〕です。ですから人の体の初めに精が凝るとき、その中には早くも神が備わっているわけです。精と神という水火が具わっているので、ここから次第に形体が生じ完成されていきます。

けれどもこの精神だけでこれを養う道筋がなければ、精神もついには絶してしまいます。ですから精の中から血が分かれ神の中から気が分かれ、血気が運行されることによって精神を養う道筋となっているわけです。たとえば、草木に根があれば必ず枝葉が生じるようなものです。

精神は根であり血気は枝葉です。

この血気が上下に運行している間に、交気の一気が具わります。天気が下降し地気が上升して、その升降の間に交わる一気があり、これが万物を化育させる元となります。これと同じように、血気が運行されて升降し交わる一気が、後天の元気となって人の生をなします。

ということは、人身は、精 神 血 気 交気の五気によって生ずるものです。この五気はそれぞれ蔵されるところがなければなりません。そこでその五気が蔵されるところを立てて、五臓とします。精は腎に蔵されて、神は心に蔵されて、血は肝に蔵されて、気は肺に蔵されて、交気は脾に蔵されます。これによって五臓のことの大概は済みました。

二、五臓の位置

けれどもまだ五臓の陰陽の分配がされていないので、その分配をします。それには五臓が存在する位置から立てなければなりません。ですから五臓の存在する位置から立てます。

先人は身体の腹中を上下の二段に分けて、精は水ですから下段に置き、心は火ですから上段に置き、血は精の中から分かれた枝であり、気は神の中から分かれた枝ですから、血気は精神の上に置きました。本は下にあり末は上にあるのが必然の理ですから、血は精の上に置き、気は神の上に置きます。

さて、交気は中の分です。中は上下の内では下の分ですから、上下二段のうちの下の段の中央の境に置きます。

【図:五臓の名前は劉純の釈名に述べられています。今は略します】

このようにして五臓の位置が定まりました。

三、五臓の陰陽

さて、これに陰陽を立ててみると、精は水陰で下段の陰位にありますから、陰中の陰で太陰です。心は火陽で上段の陽位にありますから、陽中の陽で太陽です。

さて血は精の中から分かれたものですけれども、完全な陰ではありません。どうしてかというと、血は赤色で運行して息む〔訳注:休む〕ことがないので、陰でありながら陽の用〔訳注:機能〕があるためです。ですからこれを陰中の陽とし、少陽とします。

気もまた神の中から分かれたものですけれども、完全な陽ではありません。どうしてかというと、人の息を用いて熱いものを吹くとすぐに冷ますことができますし、息を漆器に吹き付けるとその息のあたるところに露を生じますので、陽でありながら陰の用があるためです。ですからこれを陽中の陰とし、少陰とします。

交気は中の分です。中は上下二段の内の陰分である下段に属しますから、交気は陰とします。その交気が後天の元気となって、精神血気の四つのものを営【原注:めぐ】るため、至陰とします。「至」は貴んでこう呼んでいるものです。

このことを《霊枢・九鍼十二原篇》では『心は陽中の太陽です。肺は陽中の少陰です。肝は陰中の少陽です。脾は陰中の至陰です。腎は陰中の太陰です。』と述べられているわけです。

四、五臓を五行に配す

これによって五臓の陰陽の分配が済みましたので、さらにこれを五行に分配してみましょう。

腎は陰精でありもともと水に属します。心は神陽でありもともと火に属します。肺は気を蔵して陽中の少陰ですから金に属します。【原注:金は少陰とされています】肝は血を蔵して陰中の少陽ですから木に属します。【原注:木は少陽とされています】脾は交気を蔵して中央にあり、至陰ですから土に属します。【原注:土は至陰とされています】

これによって五臓五行の分配が明らかとなりました。

五、精神血気営は五臓の根元

往古の聖人は、五臓と陰陽五行の属性について論じられましたが、すべてこの理から推測されているものです。後人はこれを理解できず、五行を五臓の本としていますが、誤りです。その原【原注:もと】は精神血気営です。【原注:交気を名づけて営と呼びます】精神血気営があって五臓が生じます。たとえば鳥がいるので巣ができるようなものです。

五臓五行の属性はもっとも末のことです。ですから治療を行なう場合に五臓五行に拘わると少なからず人を損なうこととなります。ただこの精神血気営を人身における五臓の根元として、病を察し治療を施すならば、医療において少なからず神妙の効果〔訳注:素晴らしい効果〕を上げることができるでしょう。

このように考えていくと、肺は収降の金臓であり上焦に位置して華蓋となっていることも、何ら不思議ではありません。

六、精神血気体用論

門人がまた聞いて言いました。師の論は実に詳しく明らかです。血気が精神から分かれるところについて、さらに詳しくお聞かせいただきたいのですが。

答えて言いました。一切のものには必ず体用の二つがあります。体は本であり、用は体から出た外での働きです。たとえば燈火と光のようなものです。燈火は体であり光が万方に充ちるのは用です。

精があると、その精が全身に及ぶところの用があり、これを血と呼んでいます。この血が全身に布き満ちて身体の液となります。

神があると、その神が全身に及ぶところの用があり、これを気と呼んでいます。この気が全身に布き満ちて身体の温となります。

このようにして気血という用が、身体を養う道筋となって精神を増し続けるわけです。

この気血という用が精神という体を養い、精神という体が気血という用を養い、体用が一致して人身を生化しているわけです。

たとえば、木の枝葉についた雨露が根を養い、根がその枝葉を養って、根葉一致して生化するようなものです。実に人身は精神気血営の五者以外にはないものです。この五者が具足することを、人の胎の成就とします。であれば、医学の切要とはただこの五者だけにあるわけです。深く熟考し会得してください。



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