しかし、生命のせめぎあう混沌たる太極のただ中に立って聖人は、すでに存在するものたちを見極めていったと考えるなら、この図の読み方は変化します。
すなわち、混沌として存在するものに対する認識の仕方が、陰と陽という両極を踏まえた見方と五行という見方とが存在するということです。つまり、一人の人間を見る際に、いちおう二種類の観点(陰陽と五行)を提示しているということです。
そしてさらに大切なことは、その二種類の観点は相互に関連していてモザイク模様のように複雑な生命そのものを解釈しようとしているということです。
いくらでも複雑化してみていくことのできる生命そのものの姿のただ中で迷った際に立ち戻る立ち位置がここ、陰陽と五行という言葉を発する初発の時点(これを宋学では理といいます)であり、更にそれを収斂するならば、太極・混沌たる生命のせめぎあい・生命そのもの・一気なるのみ、ということになります。
生命が存在しなければ言葉は生まれることはありません。存在するものたちの声が発せられることによって、聖人はそのものたちの名前を定めました。名前を定めるということがそのまま理であるところに、聖人の聖人たるゆえんがあります。聖人の教を学ぶ者たちにとって、謙虚に学ぼうとするが故に、聖人の言葉にすがる傾向があります。すなわち理(言葉)が先になり気(存在)が後になるという誤解が生ずるわけです。
しかしそうではない。存在が先にあり聖人がそのものたちの言葉に耳を深く澄ませていく中から、真っ先にものさしとしたものが陰と陽という二であり、次にものさしとしたものが木火土金水という五であったのだ、ということによく注意しなければなりません。
存在しているものたちを名づけることによって整理していくという行為は、混沌という、言葉を発するものたちにとっては最も抽象的な場所から、徐々にその抽象のレベルを下げて、存在するものそのものへと自身の心を沿わせて分類していくという、極めて緻密な個別具体的な作業へと傾斜していきます。
それは、隙間なく生みだされる泉の流れのようなものではなく、階段を一段一段踏み固めて、抽象的な理念から具体的な「ものそのものへ」と降りていく作業です。
言葉を換えるならば、この一段目が太極であり、二段目が陰陽、さらには五行(東洋医学ではこれを肝心脾肺腎という五臓という観点から把えなおします)という観点へと、論として詳細になっていくこととなります。
逆から見るとこれは、混沌という無明の中に智の光をかざしたさい立ち現われる混乱に対処するために、陰陽と五行という刃(ものさし)で立ち向かったものであると言えます。存在そのものは何者にも理解されることもその必要もなく、ただあり、あり続けています。智の灯明を高く灯している者は、混沌のままにその存在そのものをそのままそっくりと理解することができるわけですけれども、無明の者のためにその存在を解説してやる必要があったために言葉を生み出したと言えます。その発声の端緒が名前をつけるということであり、その方法として陰陽と五行という観点からの分類を用いたのであると言えるわけです。
存在そのものを、ありのままに見て取るためには、智の灯明、直感が必要であり、それを輝きださせるためにさまざまな言葉化された道具が存在しているということです。
陰陽というものが存在しているのではなく、存在しているものを陰陽という観点から注意深く把えなおそうとするのであるということ、五行というものが存在しているのではなく、存在しているものを五行という観点から注意深く捉えなおそうとするのであること。このことが、東洋医学を、その抽象の迷妄から解き放ち、実際にそこに生きて生活している人間をありのままに把えていくためのキーワードとなります。
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