ここに一つの流派の名を立てようとするのは、奇を衒うものにあらず。ただ、東洋医学の大道を行ずる鍼灸術を述べんとするのみ。 なんとなれば、現行の鍼灸師は、その多くが東洋一元の観点を忘れ、患者の述べる疾病に追われ、あるいは西洋医学の症候名に追われて、鍼灸を枝葉末節の道具となして、あるいは按摩の代わりとし、あるいは、対症療法的民間療術の一派としてなんなんとす。 我、ここに東洋医学の大道に帰り立ち、生きとし生ける一元の生命の流れに組せんとするものなり。 そは、一元とは何ぞや。それは、生命を一体のものと喝破する観点なり。 もとより生命は一体のもの、一体の生命の大いなる流れの中に人は生き病み老い死す。東洋医学の出発の基礎であるこの大いなる生命観に立ちて、未病を治すすなわちいまだ疾病の徴候の現われる以前から、健康を増進し、より良い人生を活力をもって生きる、その手助けとなる医療を行ぜんとするものなり。 |
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