分娩の生理




成熟したあるいは成熟に近い胎児とその付属物【原注:胎盤・臍帯】 が、母体の子宮内から産出される過程を、分娩と呼びます。







産科の研究に関しては、早くも《諸病源候論・婦人将産病諸候》の 中に、「産法」「産防運法」などとして記載されています。宋代の太医局 には産科の専門がありませんでしたが、産科の医学を専門にしている学生 はおり、難産を処理するときには助産術を用いるべきであるということを 当時の医家はすでに認識していました。

たとえば楊子建はその《十産論》で、分娩に関するこのような問題に対し て、すでに系統的に論じています。その中には、『正常な分娩とは、懐胎 してから十ヶ月、陰陽の気が充分に与えられ、忽然と陣痛がおこり、胎児 が穀道に下りて、破水し血が下ることを言う。』『分娩の時には胎児の位 置が正しい位置をとるのを待つべきである。頭が産門に至った時、力を込 めていっきに送り出せば、胎児は正常に生まれ出る。』とあります。また、 《校注婦人良方・産難門》でも、分娩時に力を込めるのが早すぎてはいけ ない、産室は安静な状態にすべきであって、冷えすぎていたり暑すぎたり してはいけない、とあり、さらに難産の状態と助産の方法についても言及 されています。これらは現時点からみると高等な助産術であるとは言えま せんが、歴代の医家が産科において助産術を研究しており、それによって 妊産婦の苦痛を取り除こうと努力していたことをしのぶことはできます。

《十産論》以降にも、産科に関する論文や著作は少なからずあり、《達生 篇》《胎産心法》《産科心法》《産孕集》等が世に問われましたが、妊娠 や出産に関する内容の多くは《十産論》の原文から転載されたもので、顕 著な発展はありませんでした。







また、封建社会による統治が長期にわたっており、封建的な意識も根強く、 医業を行なう権利の大部分は男性がもっていましたから、婦産科に関する 研究においても主として医学の対象となったのは、生殖器官の生理・病理 や疾病の研究でした。このように出産についての深い研究が進められなか ったため、当然、この分野での学問の発展もほとんどありませんでした。 そもそも封建時代には「男女の交わりは親しくてはいけない」という道徳 律がありましたから、文化的医学的知識を得ることのできない「看生の人」 「穏婆」「洗母」「接生婆」「収生婆」〔訳注:すべて産婆さん〕といっ た人々によって、出産の手助けがなされており、医者はあえて出産に立ち 会おうとはしませんでした。その結果、産科が外科的な側面を有する分野 であるにもかかわらず、内科的な方面からの研究が好んでなされることに なりました。このため、妊娠や分娩に関する書籍の中でも、疾病の処理と 同様、弁証求因という内科的な治法で論治されることになりました。しか しこれはまた、妊娠・分娩について、わずかに学問的に発展した部分でも あります。







本書では、中医婦科学の臨床的な要請にもとづいて、ただ分娩前後 の臨床的な現象について紹介します。しかし、分娩過程やその処理の内容 については、本書の範囲を超えており、現代の産科の専門書に詳細に論じ られていますので、そちらを参考にしてください。









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