六、胸を問う





胸すなわち膻中は、上は心肺に連なり、下は臓腑に通ずる。

胸腹の病はその種類が非常に多いため、全てを語り尽すのは難かしいが、臨証においてそれを敢えて問診する理由は、そこに邪気が有るか無いかということを判別し、補法を用いるか瀉法を用いるかを決定するためである。

たとえば胸腹が脹満しているものに補法を用いてはいけないが、胸腹が脹満していないものに瀉法を用いてもいけない。

これがまず基本である。

さらに、痞と満との相違やその軽重をさらに分けて考えていかなければならない。

重いものは脹り塞がって中満する。これは実邪であるから攻めなければならない。

軽いものは食欲がなく空腹感や満腹感を感じない、また脹満感が有るようでも実は脹満感が無く、中空で物が何も入っていない感じがする。

これが痞気であって、真の脹満ではない。これは邪気が胸中に陥ったためになったもの・脾気が虚し運化し難くなったためなどによっておこっている。

患者はこの区別が判らないため、ただ胃気が開かなかったり食欲不振があることを根拠に脹満感がきついと問診では言うけれども、実は本当の脹満ではないことがある。

ここに虚実を問う意味がある。

もしこの虚実が正確に弁別できていなければ、補瀉を間違えて治療することになり、人身を害することが非常に多くなるからである。









一、最近の人の病気は虚証のものが非常に多いため、補法を用いることが多い。

しかし補法を用いることによってさらに次の病気を造ることもあるので気をつけなくてはならない。

その補うべきか否かの時期を弁別するためには、胸腹が寛いでいるかどうかということが重要なポイントになってくる。

胸腹が寛いでいることを確認した後徐々に補剤を与えていくのである。

それでもまだ病気を治しきるほど薬力が強くない場合は、さらに意を決して強力な補剤を用いるようにする。

融通無碍に用いること、これが補法を用いる大法である。






一、危急の病気でやや小康状態になった場合にも、先ずその胸が寛いでいるかどうかということを聞いた後にきちんと処置していくべきである。

もし元気が非常に虚したために胸腹が脹ってきている場合は、純然たる虚であるにも関わらず補剤を受けつけない場合がある。

そのような患者に強いて補剤を与えると、ただ無益なだけでなく、治せないことによって人の謗りを招くことにもなる。

胸腹の状態を問診していくことは、この意味でも重要なことなのである。








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