明哲の二字の意味は、機を見つつ自らの姿勢を保ち続けるということである。
医療を行なう上で困難な部分はまだあまり明らかとなってはいない。これが明らかとなれば病気を治療するうえでその困難は半減する。
この、医療を行なう上で最も困難な部分とは、まさに人の情の部分である。
人間の不思議さは真に言い表わし難いものがある。こちらに独自の見方があれば、相手にも独自の知識がある。彼が全てを知り尽しているのであれば、自分で全てやっていけばいいのであって、私の力を借りる必要はない。
ところが、危険で劇しい症状の患者を診ているときに、私が指示している傍らから「某を使ったらどうか、某を使ったらいけないのではないか、」といったことを、自分の浅見に従って言うものがある。
少しきつい治療をしようとすると「やりすぎではないか」と言い、少し弱い治療をしようとすると「足りないのではないか」と言う。全く意見が合わない。
このような場合は、必ず後に不満を言われるものである。
これが機を見ることの一番目である。
様々な傾向の方剤を用いて自分できちんとまとめられず、朝に王氏の言うことを聞いているかと思うと夕方には李氏の意見を聞き入れて、見解が定まらない。
すでに投薬していてもその薬によって起きた患者の身体の反応を分析できない。
人の言葉に惑わされ、今与えている薬を止めてその薬を用い、さらにはその薬の長所を顕示するために前に与えていた薬の短所をぺらぺら話しだす。
ところが後から与えた薬の効果が思うように出なければ、今度はその責任をまた転嫁し始めるのである。
これが機を見ることの二番目である。
病膏肓に入るという状態のものは、当然治療し難いものである。
そのため、その患者の苦しみを憐れんで無理に処置を施そうとする者がある。
この際、今までよりも更に特殊なことができなければ、どうしてその苦しみから患者を急に救い出すことができるだろうか。
また、特殊なことができたとしても効果が得られなければ、いたずらに人目を驚かすだけのことであって、後々変な噂が立つこととなるだろう。
これが機を見ることの三番目である。
投薬の是非を判定されたり、治療効果を競いあったり、幸や不幸の利害が絡んでくるような場合は、そこに近付いて余計な困難が我が身に及ばないよう気をつけるべきである。
これが機を見ることの四番目である。
医学を軽んじ宗教を重んじ、医学の名によって人々に治療を施すというようなことはあってはならないことである。
ある辺鄙な村では病人に対するあたりが丁寧な者がいるということから、反って私を重んじようとしない。
ああ!なんと悲しいことではないか。どちらが医学知識が豊富だというのであろうか。
これが機を見ることの五番目である。
繁雑な議論を好む者がある。
浅薄な知識に頼って即効を求める者がある。
情志が不調和な者がある。
任せきることの不得手な者がある。
このような人々は皆な医家の最も忌むところである。
これが機を見ることの六番目である。
この六者は、ただ黙って判断すべきことである。ことに高位高官のものを治療する場合は最も留意すべきことである。
しかし、効果のあがる治療法を探し求めているのに反って変な治療を受けて病状を悪化させてしまうという人間の性質を、どう考えればよいのだろうか。
しかし、吾れと吾が心を尽して語っても治療を受け易い状況を作り出せないのは、結局私自身の責任である。
治療を進めるか止めるかは、こういった全体的な状況を見ながら決定するのである。
これが、明哲なる者が自らを治め治療していく際に特に重視しなければならないところである。
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