私が《内経》を解釈した際、君火を明とし、相火を位として把える説がやはり最もよかったが、それでもまだ言い尽くされていない部分があるような気が私はしていた。
しかし、李東垣が、「相火は下焦包絡の火であり、元気の賊である」と言い、朱丹渓もこれを支持して立証しようとしているのを聞いたとき、私は口を掩って笑い、その無知に驚いた。
このことが発端となって私は君火と相火について再び考究することにした。
そもそも《内経》が火の意味を解明した際には、君・相・明・位の四字を眼目としたのである。
この四字はそれぞれ非常に意味が深く、至誠の綱領とも言うべきものである。
この精義を明確にしておこう。
君の道はただ神の道でありその用は虚にある。
相の道は力の道でありその用は実にある。
君の神たるゆえんはその明にあり、
相の力たるゆえんはその位にある。
明は上にあって明るく化育の元主となり、
位は下に位置して神明の大本となる。
これが君相相成の大道であり、天が有れば地も有り、君が有れば相も有るということは、明白なことである。
君相の意味をどうしてだらだらと話すことができようか!
五運に分けられたものの中にあってはその各々が一運を主るが、ただ火の字だけに君と相があって他にはそういった区分がなされていないのは何故であろうか。
もともと両腎間の生気を総合して元気という。
元気はただ陽を主とし、陽気とはまさに火のことである。
しかし火の用〔訳注:火の作用〕には非常に微妙な意味があるので、これを火象から考察し明確にしていこうと思う。
炎が軽く清であり上に升るのは火の明である。
炎が重く実しておりその
明は神の位であり、無明であれば神は著くところが無い。
位は明の本であり、無位であれば炎は生ずるところがない。
ゆえに君火が窮まりなく変化するためには、相火が地にしっかりと根を張っていることが基本となる。
火というものを分けて一のものを二としているけれども、これはまた二から一へと総合されるのである。
これを君火相火の弁という。
ものが生化し・盛衰し・本末を形成する上での軽重がここに関わっているということは、これで理解できるだろう。
人の生においても頼るところはただここだけである。
ゆえに《内経》においても特に言葉を費しているのである。
ただ《内経》にはその大義が表わされているだけであって突っ込んだ分析はそれほどなされていない。
そのうち《刺禁論》には、『七節の傍中に小心有り』〔訳注:椎骨の下から七番目すなわち腰椎二番の
これに基づいて後世の諸家が相火は命門に寄すと言っているのは是としなければなるまい。
しかし私の見解をもってすれば君相の意味はもっと明確になっていくであろう。
まずその概要を述べよう。
相火が命門に在るということは根が地下にあって枝葉の本となっているということと同じ意味である。
臓腑にはそれぞれ君と相とがあり、形質に基づいて志意が出ている。
ゆえに、心の神・肺の気・脾胃の倉廩・肝胆の謀勇・両腎の伎巧変化など、神奇の発現する全ての基礎としてそれぞれに地があるのである。
地があって初めてその力が発揮され、地が豊饒であって初めてその上に植物が生い茂るのである。
全てはこの地の位によって存在し、この地が五臓それぞれに位をもたらし五臓それぞれに相をもたらしているのである。
もし相が強ければ君もまた強く、この両者は相互に依存しあう関係である。
ゆえに聖人は、特にこれを相火と名づけ非常に重んじたのである。
にもかかわらず後世の人々がこれを賊と呼ぶのはなぜなのだろうか。
これは万世に渡る非常な問題である。そのため私はここに語るのである。
この私の言を過ちとする人もいる。
つまり、「李東垣や朱丹渓がこの相火をして賊となすことにも一面の真理はあるのではないか。
人間には情欲が多く、その情欲はよく妄動する。
情欲が妄動すれば火が起こり、火が盛になれば元気を傷ることになる。
このことから見るならば相火をして元気の賊とすることもあながち間違いとは言えないのではないか。」と言うのである。
しかし私はそこでこう答えるのである。
「相火を賊として扱うのか扱わないのかという判断の分岐点は、正邪の判断の中にある。
情欲が動ずるのは邪念により、邪念の火は邪気となる。
しかるに君相の火は正気であり、正気が蓄積されて元気となるのである。
これは人間の肉体における家と言えるであろう。
これを商いに
その資産が誰によってどう使われるのかが問題なのである。
相火もこれと同じことで、初めは相と呼ばれていても、しまいには賊火とされることにもなるのである。
この二者の区分を不明瞭にしたまま説くことは、聖人の心を失うこと甚だしいものがある。
火の賊が人体を傷つけるのは、君相の真火がそれをするわけではなく、内傷であろうと外感であろうと全て邪火がするのである。
であるから、邪火を賊と言うのは当然のことであるが、相火をも賊と言うべきではないのだ。
また、邪火として考えるならこの火は六賊の中の一つにすぎない。
しかるになぜ李東垣・朱丹渓の二氏は火のみを取り上げてかくも
彼らの過ちはこのように甚だしく、正邪の区別さえも明瞭にできていないのである。
話にならないではないか。」
このように私は説き、相火を邪火として畏れるという説を聞く毎に、彼らが相火の意味をまだ誤解しているのを知り、失笑せざるをえないのである。
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