神気の存亡を論ず





経に、『神を得るものは(さか)え、神を失うものは亡ぶ』とある。

神の義とは何と素晴らしいものではないか。

神は死生の本である、よく理解しなければならない。






脉における神を言うならば、先ず第一に脉に神が有ることが最も大切なことであると言える。

《脉法》に、『脉中有力なればすなわち神有るとなす』とあるが、この有力とは強健という意味ではなく、中和の力があることを言うのである。

力があってもその中に和緩を失わず、柔軟であってもその中に力を失わない、これがまさに脉中に神が有るということなのである。

もし不及の脉であれば、微弱で脱絶しようかという感じで、力が無い。

もし太過の脉であれば、弦で強く真蔵の脉のようで力が有る。

この二者は陰陽の違いはあるが、ともに神が無い脉であり、危険な兆候なのである。









身体の状態や症状における神を言うならば、

目の光に精彩があり・

言語も清亮で・

神志は乱れず・

肌肉が痩せて削られたようになっていず、

気息も通常であり、

大小便にも異常がないようなものは、

その脉が少しおかしくとも心配する必要はない。

その身体の状態に神が有るからである。






もし目の光が無く・

瞳子もふらふらして・

身体も痩せ・

顔色が悪く・

呼吸も異常で・

泄瀉が止まらず・

全身の大きい筋肉が削げ・

神志昏迷となって病人が手で衣服を撫でたり蒲団の縁をさすったりし・

邪気は無いのに話すことに筋道がなく・

病気はないのに虚空に鬼を見・

腹部が脹満するにも関わらず補瀉を施すことができず・

寒や熱の病気に罹っているのに温剤も涼剤も用いることができず・

忽然として急に病気になり深く昏迷して煩躁し眼の前が暗くなって人事不省に陥り・

急に卒倒して眼は閉じ口は開き手は力無く開いて失禁するような状態のものは、

脉に異常がない場合であっても必ず死ぬ。

その身体から神が去ってしまっているからである。









次に治療の状況によって神の有無を見ていこう。






もともと薬が胃に入ることによって邪気に勝つことができる。

薬は、胃の気によってその薬力を全身に及ぼし、胃の気によって始めて温・吐・汗・下してその邪気を駆逐することができるのである。

もし邪気が勝ち胃気が弱りきっている場合は、湯薬はただ通りすぎていくだけで、胃の気によって化して全身に運ばれることがない。

そういう状態になると、神丹〔訳注:神薬・守り薬〕が有っても手の打ちようがないのである。

ゆえにそのような場合には、寒薬を用いても冷やすことができず、熱薬を用いても温めることができず、発汗させようとしても体表が反応せず、積滞を行らそうとしても裏が反応しないのである。

また、虚証であっても補法を受け付けず、実証であっても瀉法を受け付けず、薬が咽を通らなかったり、咽を通ってもすぐに吐き出すような状態になっているのである。






このようなものは、いくら薬によって身体の反応を呼び起こそうとしても、身体がすでに反応できなくなっているのである。

これは、臓器に蔵されている元神が全て無くなったために、薬を受けつけられなくなっているのである。

こういったものは脉や症状とは関係なしに、まちがいなく死んでいく。









総合的に見ると、脉と症状における神の弁別は次のように言うより他ないであろう。






脉が悪いが症状が軽いためにその予後が良いと判断する場合があり、脉が良いが症状が重いためにその予後が悪いと判断する場合がある。

これは症状を重んじて脉を重んじなかった例である。






症状が重いが脉が軽いためにその予後が良いと判断する場合があり、症状が軽くとも脉が悪いためにその予後が悪いと判断する場合がある。

これは脉を重んじて症状を重んじなかった例である。






このように症状と脉とどちらを重んずるべきかということの中には、当然、一種言いようのない玄妙な判断がある。

神というものはなんと言い現し難いことか。

神の緩急の変化がよく判るものは、医の名人と言っていいのではなかろうか。









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