病気には標と本とがある。
本とは病気の源を言い、標とは病変を言う。
病気の本はただ一つであり、隠れて明かにし難い。
病変は非常に多く、表面に現われているため明らかにし易い。
そのため最近の治療家には、本末を理解できないまま、ただ目前に現われている症状を根拠にして治療している者が、多いのである。
これは、我々の医道にとって最も大きな問題であると言わねばならない。
また最近流行の医者が、「急なればすなわちその標を治し、緩なればすなわちその本を治す」と言い、人々が互いに相伝として暗誦し、格言としてこの言を尊崇して医道の要としている。
この説は経典の本来の意味とは異なるけれども、使い道もある説だと私は思っている。
経典の本意とは異なる部分とは、標を治すということと本を治すということとを相対的に論じていることである。
このように語られると、標と本とを分割して考え、相互に補い合うよう用いねばならない感じがしてくる。
もしそのような説が正しいとされるならば、《内経》に、『病を治すには必ずその本を求むべし』とある言葉は、どうとったらよいのだろうか。
また経に、『陰陽逆従とは標本の道のことである、小にして大、浅にして博、一言をもって百病の害を知るべし。』ともある。
浅い部分を見て深い部分を洞察し、近くを見て遠くを察知する、これを標と本として語るなら納得できるが、市井に言われている標と本はこの足元にも及ぶものではない。
また経に、
『先に病み後に逆するものはその本を治す。
先に逆して後に病むものはその本を治す。
先に寒して後に病を生ずるものはその本を治す。
先に病み後に寒を生ずるものはその本を治す。
先に熱して後に病を生ずるものはその本を治す。
先に病み後に熱を生ずるものはその本を治す。
先に病み後に泄するものはその本を治す。
先に泄して後に他病を生ずるものはその本を治す。
先に熱して後に中満を生ずるものはその標を治す。
先に病み後に中満を生ずるものはその標を治す。
先に中満をして後に煩心を生ずるものはその本を治す。
小便大便ともに不利なるものはその標を治す。
小便大便ともに利するはその本を治す。
先に小便大便ともに利せずして後に病を生ずるものはその本を治す。』とある。
これらの経典の言葉から標本について考えてみると、病気は一般論としては全て、その本を治療しなければならないことがわかる。
ただ例外として中満と小便大便の不利という二症状をあげ、これらは標を先に治療しなければならないと言っているのである。
何故か。
中満であれば上焦が通じず、小便大便が不利であれば下焦が通じないからである。
このような状態のときはその標を治療して、気血が升降する道を開通させなければならないからである。
であるから、これを標を治すと言ってはいるけれども、実はその本を治療しているのである。
これ以外の事例について、もし標と本を相対させて言うとすれば、標の治療と本の治療とが同じレベルで語られていることになる。
このために私は「急なればすなわちその標を治し、緩なればすなわちその本を治す」という説を経典の本意とは違うと言っているのである。
しかしこの説にもまだ使い道があると言っているのは、緩と急という二字の中に考察を加えるべき部分があるからである。
中満と小便大便の不利という二症状の中にもまた、緩急がある。
急性病をゆっくり治療してはいけないし、慢性病を急いで治療することはできない。
こういった、緩急についての考え方の中にまた、標本の弁別があるのである。
これを誤認して一概に論ずることは、もちろん絶対にいけない。
現状を見ると、ただ標本を理解できないだけではなく緩急さえも理解できずに治療が行なわれている。
標本が理解できないために、ただその肉体を見るばかりで、その七情を見ることができない。
緩急が理解できないために、急性の症状があっても、それが生命に関わっているものであるかどうかが理解できないのである。
このためにいつまでたっても標を見ながら本とし、緩を見ながら急として治療しているため完全に混乱し、標・本・緩・急という四者の意義を全く失ってしまうのである。
もし生命を重んずる気があるならば、このことをよく考え、慎んで治療に当たらねばならない。
........伝忠録の目次へ........ |
| 景岳全書 | 前ページ | 次ページ |