本を求めるの論





全ての物事の中には本がある。

病気を治療する場合も、本を求めることを最も中心の課題とする。

本とは、ただ一つあるだけで二つはないものである。






たとえば外感によるものは表を本とし、

内傷によるものは裏を本とし、

熱証の病は火を本とし、

寒証の病は寒を本とし、

邪気が有り余っているものは実を本とし、

正気が不足しているものは虚を本とする。






その病気が何によって起こっているのかというその原因を洞察し、これを病気の本とするのである。

万病の本は、ただ表・裏・寒・熱・虚・実の六者にあり、この六者を理解できれば、表に表証が有り裏に裏証が有るという具合に、寒・熱・虚・実の全てにわたって理解できることになる。

この六者は相対的なものであり、氷と炭とが陰陽的に正反対であるようにこの六者を弁ずるなら、それは間違っている。






病気に罹ってもすぐに治療しなかったり誤治によって治り難くなっているものは、その病程は非常に長くなっているけれども、必ず本からその病気が発生しているのである。

そのような病気を診るときに、曖昧で疑わしい部分や目前の症状を追いかけることは最も慎まねばならない。

経に、『衆脉を見ず衆凶を聞くことなくして外内相い得、形をもって先んずること無かれ。』とあるが、この言葉は誠に本を求める上での要と言えよう。

この言葉を知らずに治療を行なうものは亜流と言われてもしかたあるまい。

明晰な治療家はわずかな病因からでもすぐにその病気の本体を把えることができる。

どのような病気であっても本に従って治療していけば、治らないということがないからである。









この表裏寒熱虚実の六者は実際の病気においては同時に現われることが多い。

しかしその中にも根源的なものと根源的でないものがある。

このことをよく理解しておかなければならない。






この表・裏・寒・熱・虚・実の六者の中でも、特に虚実は表裏寒熱の四者全ててと深く関係しており、弁証していく上でも最も重要な部分となる。

虚は元気の状況という視点から考えたものであり、

実は邪気の状況という視点から考えたものである。

元気がもし虚していれば、邪気があっても安易に瀉法を行なうことはできないが、

補法などを行なっても邪気がどうしてもとれなければ、結局は瀉法を行なうしかなくなる。

このような状態のものが最も処置し難いものである。

ここで考えていくことは、患者の元気がこの瀉法に耐えられるか耐えられないかということである。

また、瀉法を補法として用いられるかどうか、

その反対に、補法を行なうことによって瀉法として働かせ得るかどうかということである。

このことは、それが補法であれ瀉法であれ、その補瀉の程度を調節することによって始めて答を得ることができる種類のものである。






原因もたいして深くない軽い病気であれば、その根本を取り去ることを主眼として治療すれば、一薬だけで癒すことができる。

しかし下手な医者はこのような患者を診る場合でも、痰が原因ではないのに痰が問題だと言い、火が原因ではないのに火が問題だと言って、あらゆる方向から検討を加え反って漠然となり、確たる見解を持つことができなくなる。

そのため反ってその真の病因を残したまま治療していくので、軽かった病気は日々重くなり、重症のものであれば生命を危うくするに至るのである。

このように、人々に災いを与えその生命を危険にさらす原因は、全てその本とすべきところと末とすべきところとを理解できていないことにあるのだ。

医道というものは何と難かしいのであろうか。

医道は神を貴ぶにもかかわらず、その神に至る道の何と遠いことであろうか。






私はかつて述べたことがある、

「医道には慧眼がある。

この眼光は永遠の彼方からやってくる。

また医道には慧心がある。

この心はまさにこの医を行なう場所にある。

その結果、よく洞察することができ、よく診察することができる。

このような機微を知ってこそ始めて、医者を医者と言わしめることができるのである。」と。

医道の機微を明確に洞察し、この医道を医道として確立しようではないか。

これを成し遂げた者を大医と言い、王に匹敵する者とするのである。









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