形を治するの論





《老子》に、『吾れ大患有るゆえんの者は、吾れ身有るが為なり。吾れ身無からしめば、吾れ何の患か有らん』とあるが、

私はこれを、「吾れ大楽有るゆえんの者は、吾れ身有るが為なり。吾れ身無からしめば、吾れ何の楽かあらん?」と言い替えようと思う。

人が存在するということは、「吾れ」があるからである。

その「吾れ」が頼ることのできるものはただ「形」だけである。

「形」が無ければ「吾れ」もありえないのである。

この肉体を持つ人間にとって「形」を大切に考えるということがいかに重要な問題であることか。

老子のようにそれを簡単に否定することは避けなければなるまい。






しかし「形」の意義自体について言うならば、それはそれほど大きな意義を持っているわけではない。

たとえば、言動や視聴すること自体は「形」ではない。

俊・醜・美・悪自体は「形」ではない。

勇・怯・愚・智自体は「形」ではない。

生・死・安・否自体は「形」ではない。

しかし、人間が交流するということは、その「形」を通して交流し、功業を建てるという場合は、その「形」によって建てるのであるから、やはりそこには「形」というものに重要な意義があるとすべきであろう。






人々がこのように大切な「形」を養っていく方法にうとく、また知識はあっても用いる事をしないのはどうしてだろうか。

世の人々は、情志によってその宿る臓腑の「形」を傷り、労役によってその筋骨の「形」を傷る。

内部の「形」が傷られれば、神気はそのために消靡し、外部の「形」が傷られれば、四肢や体幹はそのために偏廃する。

甚だしい場合は肌肉が全て削げ落ちたようになる。

肌肉が全て削げ落ちたような状態になっているときには、「形」が危険な状態にあるということを知ることができる。

そして、このように「形」が傷られているような状態のときには、その命が危険な状態なのだということを知らねばならない。






であるから、養生をしっかりしようとする者は、先ずこの「形」を養い、これを神明の宅としてしっかりしたものにすべきである。

また、治療をしっかりしようとするものは、先ずこの「形」を治療することをその健康回復の本とするべきである。









「形」を治療するにはその方法があるわけだが、それは簡単に語れるものではない。

しかし「形」が陰であるということから考えるならば、その治療は「精」「血」の二字に尽きるということができるであろう。






もし外邪を取り除こうとするならば、「精」「血」を基準にして考えていかなければ利達することはできない。

中気をしっかりさせようとするならば、「精」「血」を基準にして考えていかなければ中気を蓄え強めていくことはできない。

水の中に真気がある。

火の中に真液がある。

「精」「血」でなければ、何がこれらを升降させることができるだろう。

脾は五臓の根本であり、腎は五臓の化源である。

「精」「血」でなければ、何がこれらを潅漑させることができるだろう。

「精」「血」はまさにそのまま「形」であり、「形」はそのまま「精」「血」である。

天一は水を生ずる、その水こそがすなわち「形」の大本なのである。






ゆえに病気を治療しようとする場合、形体をこそ最も重視すべきであり、「形」を治療しようとするならば、「精」「血」を先ず最初に考えていかなければならない。

これこそがまさに医家の大道である。

よくこれを理解するならば、変化して型にはまり難い多くの病変の原因が、自ずから明らかになるものである。









この「精」「血」を治療する方法は薬餌を用いるのが最も良い。

しかし、薬餌として用いるのに適切なものは、ほんの数味だけである。

多くのものはその性質が偏っており、用いるとしても佐使としてしか用いることができない。






また、薬餌とまではいわずとも飲食のみであっても、口にすることができるものは「精」「血」を資益することができるのである。

人が口にすることができるものの中で、性質が純正で他を損うことがなく、胃気に最も良いものは穀類である。

よく人は私に、「どんな食べ物が身体には良いのでしょうか」と聞くけれども、私ははっきりとした答を与えることができないでいる。

私の言葉に信を置く人々は、(れい)〔訳注:甘酒・甘味のある泉〕や飴のようなものではないかと言うけれども、私の言葉に信を置かない人々は、私の揚げ足をとって私を非難する根拠にしてしまうからである。

そのために今まで私はこのことを明らかに語ることができなかったのだが、ここにはその意味を明確に述べ、心有る者が自ずから悟るのを待つこととした。









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