臓象別論





臓象の意味について《内経》に記載してある部分を、私は《類経》の中でまとめたけれども、それでも充分には詳しいものではない。

《内経》に語られていない部分もあり、《内経》の同じ篇の中にも異なった記載があり、前の篇では同じものとして記載されていたものが後の篇では異なったものとして記載されているものもある。

そのため、それぞれの臓象について精確に弁別して考えていかねばならない。






臓象を人体における機能の面で語るならば、気と血の二種類に集約される。

五臓のそれぞれに当然気血はあるが、その中心は、肺から気が出て、腎に気が納まるということである。

肺が気の主であり、腎が気の本であるとはこのことを言うのである。

血は水穀の精である。

それは渾渾(こんこん)と流れ出て、脾によって化生され、心によって総統され、肝によって蔵受され、肺によって宣布され、腎によって施泄され、全身を潅漑する。

気は全身の緩やかな呼吸を主り、血は全身を(うるお)すことを主り、人にとってのふいごのような役割を気と血とでしている。

これは全ての人に共通の部分である。






それぞれの人々に異なっているのは、各々の臓気にそれぞれ強弱があり、稟賦(ひんぷ)〔訳注:先天的な状態〕にそれぞれ陰陽の偏りがあるためである。

臓に強弱があれば、当然

神志の強弱にも違いが出、

顔色にも違いが出、

声音にも違いが出、

性情にも違いが出、

筋骨にも違いが出、

飲食にも違いが出、

労役にも違いが出、

精血にも違いが出、

勇怯にも違いが出、

剛柔にも違いが出てくる。

気血ともに非常に強いものは、太過によって病を生ずることが多く、

気血ともに非常に弱いものは、不及によって病を生ずることが多い。

外的状況を根拠にして内的状況を洞察していくなら、理解できないということはない。






先天的な性質には陰陽の別がある。

陰臓のものは温暖を喜ぶので、生姜や桂枝などの辛熱の薬剤を用いるとよい。

陽臓のものは生冷を喜ぶので、黄ごんや黄連などの苦寒の薬剤を用いるとよい。

平臓のものは熱性のものを食すれば陽臓となり、寒性のものを食すれば陰臓となる。

肥膩で栄養豊富なものを食べることが身体にあっているものは、潤滑さもなければならない。

清素なものを食べることが身体にあっているものは、栄養豊富で臭いのきついものは畏れて避けるべきである。






気が実しているために、その気をさらに滞らせる薬剤を用いることができないものがある。

気が虚しているために、その気を破るような薬剤を用いることができないものがある。

血が実しているためにその血をさらに渋らせる薬剤を用いることができないものがある。

血が虚しているためにその血をさらに泄らす薬剤を用いることができないものがある。

ある飲食物のみを忌むものがあり、またある薬餌を摂ると害になるものもある。

ある臓が他の臓に較べて強すぎるため、他の臓を凌駕して傷めている場合があり、

またある臓が他の臓に較べて弱すぎるため、いつも他の臓によって制約を受け、他の臓に虞れを持っている場合もある。






平素から風邪を引いている状態が続いているものは、体質的に燥気が多いのである。

燥気が多い原因は血虚のためである。

湿邪によってよく病気になるものは、体質的に寒気が多いのである。

寒気が多い原因は気虚のためである。






これらは個々人の体質的な異なりについて言っているのであるが、同一個人にあってもその体質は年齢によって変化する。

たとえ生まれつき丈夫で陽剛な体質であったとしても、その強さに甘えて節制することをせず、寒涼の食物を欲求のおもむくままに摂り続けるならば、終には陽気が傷られて、陽剛の体質も変化して陰柔になっていく。

その逆に、たとえ生まれつき虚弱で陰柔な体質であったとしても、日常的に辛熱の食品を摂るように心がけると、陰柔も日に日に涸れていき、終には陰柔の体質も変化して陽剛になっていく。

このことは飲食の摂り方についてのみ言えることなのではなく、情や慾の持ち方など全てのことがらについて言えることである。






そもそも症状というものは明瞭に表われたりまた隠れたりするものである。

朝と夕方でも変遷がある。

満ちているものをさらに満ちるようにすると、終には覆される時が来、

損なわれているものをさらに損えば、終には破れる時が来る。

このことを、『長期間にわたって気が増加するのは、物が化する場合の常態である。

気が増加して長期間にわたれば、そのものの力を奪う原因となる。』と、

経文にはすでに明言されているのである。









「変」ではないものは「常」であり、「常」ではないものは「変」である。

人の気質にも「常」と「変」とがある。

医者が病気を治療することにも「常」と「変」とがある。

「常」と「変」とを理解しようとするならば、望・聞・問・切の四診全てに明るくなければならない。

もし少しでも偏見をもってその人の病気の窮まりない変化に対応しようとするなら、その人に対して反って害をなすことの方が多くなることを、私は知っている。

であるから、この篇の意義を深く考察しなければならない。









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