天地の道を観察してみよう。
天地は満ちれば虚して、消長する。
太陽は最も高く昇ると次には西に傾き、月は満ちては欠けていく。
これは天運の循環であり、天もこれに逆らうことはできない。
天も逆らうことができないほど以前からの法則があるために、ここに先天の説ができるのである。
先天には定数があり、君子がその天命を知るにはこの定数によって天に聴くのである。
これが後天の道であれば天地がそれぞれに関わりあい、人の力も関与してくる。
何によってこれを明確に読み取ることができるかというと、歴代の国家の興亡である。
これを観察することによって人々の長寿と短命とを推し図ることができる。
国運は艱難をともなうことが多いものであるけれども、国が成立しなければ敗れることはない。
歴代の国家の中で、商・周・漢・晋・唐・宋の相伝によると、これらの国運には全て中興があった。
このことに基づけば人道にも中興があるということになる。
そもそも消長には一つの理があるだけであり、小さくとも大きくともそれは同じことである。
私は以前このことを康節先生に聞いたことがある。
すると、「一万里の大地に、四千年の間興亡が続き、五百の王が位に就き、七十の国が開国したが、この中には人為によってなされたものが多かった。
そのような中でなぜ中興されたのがこの数代にしかなかったのであろうか。
これは、道を知るものが少なく道を知らないものが多かったためである。
道を知るものは、すでに人を得、さらに天をも得ているのである。
人を得るものは天をも得ているからである。
道を知らないものはその本を知らないのであるから、当然その末も理解できない。
初めから何も持ってはいないため、それを失う原因を理解することができないのである。
身体や生命のことで言えば、世間の人々はその生命を愛さず、いつも誤りに耽っているが、これは人の道を知らないためである。」
と先生は言われた。
もしこの道を明かにしようとしても、本当のところは語ることができないのであるが、語って証明することができなければ人々はこれを信ずることができない。
そこで、この国運の盛衰のありかたを観察していく中から、人の道を考えていこうと思う。
では、国家の衰亡について考えてみよう。
国家が衰亡していく理由には、
人心が離れていく場合・
国家の財産が底をついた場合・
武力が弱くなった場合・
柔軟な対応に失敗したことによる場合など、
いろいろな場合があるだろう。
これは人の健康不健康についても同じである。
国における人心とは、人においては神志のことである。
神を使うものからは神は遠ざかり、神を休ませるものには神が住むことになる。
生気の主は心にあるのであるから、これを元神として養うようにしなければならない。
また国における財産とは、人においては血気のことである。
気は陽であり陽は神を主る。
血は陰であり陰は形を主る。
血気がもし衰えれば形も神も衰えることになる。
営衛の気はほんの僅かであっても惜しむべきである。
また国における武力とは、人においては剋伐のことである。
武器は凶器であり剋伐は危険な事態である。
日々身心を傷つけてその元気を損なわずにすむような者はいない。
元気を消耗することは厳に慎むべきである。
また国における柔軟な対応とは、人においては疑いを抱くということである。
今日はここに翌日はあちらにへつらって、穏当な〔訳注:中途半端な〕ことをやっていれば、いたずらに最良の時期を失い、変症がすぐ生じることとなる。
いたずらに停滞し続けることがどれだけ人を害するものか理解できないのである。
機会というものは正確に把え、速やかに行動しなければならないものなのである。
人の大数は先天を体とし後天を用とする。
人身の興亡の変化もこの先天と後天に培われまた覆されて、あたかも人が自らは関わることができないかのようである。
この先天とは何のことを言うのだろうか。
《内経》には、『人が生まれて
十歳にして、血気が始めて通じ、その気が下にあるため、走ることを好む。
二十歳にして、気血が盛となり、肌肉が丈夫になってくるため、走ることを好む。
三十歳にして、五臓が大いに定まり血脉も盛満となるため、歩くことを好む。
四十歳にして、臓腑と経脉が充分に盛となり腠理が疏になり始めるため、坐すことを好む。
五十歳にして、肝気が衰えるため、目が見え難くなる。
六十歳にして、心気が衰えるため、臥することを好む。
七十歳にして、脾気が衰える。
八十歳にして、肺気が虚するため、誤ったことを言う。
九十歳にして、腎気が竭する。
百歳にして五臓六腑全てが虚し、神気の全てが去る、そのために形骸だけが残って死んでいくのである。』
これがいわゆる先天の常度であり天年と言われているところである。
このような天界の常度は人それぞれに備わっている。
最近の人々は、知覚が生じてから後は、若い頃の強健さに頼って自分の身体を護るめに節制するということが何もない。
人生の常度には限りがあるが、情慾には極まることがない。
精気の生息には限りがあるが、精気を耗損することには極まることがない。
この先天的に得ているものを消耗しながら、自分自身の常度を全くして、天年を全うすることができる者が、百人のうちに何人あるだろうか。
自分自身を傷つけ損なうには原因がある。
これは、その人自身がやっていることである。
これに気付くことがよく言われているところの、後天的な節制の始まりなのである。
このように考えていけば、自分を滅ぼすものは自分自身であり、自分を回復させて元気づけていくものも自分自身であるということがよく判るであろう。
逆天の状況を自ら強いて求めるのでなければ、節制とはただ自分自身の本来の姿に戻るだけのことである。
この自分自身の本来の姿を獲得することができれば、国運であれ人運であれ全て中興することができる。
明哲な者でなければこの全てを語り尽くすことはできない。
しかし、このことが理解できないまま生活していれば、人生は落花流水のごとく流れ去り、この人生から何も得ることができなくなる。
いったん衰え始めれば、どんどん衰えていき止まることがない。
よく心に命ずるべきである。
《易》に、何度も来復を語っているのは、まさにこのためなのである。
「復」の道は、天にもあり人にもある。
それは元気にあるのである。
元気が傷られることがなければ、どうして衰敗を畏れることがあろう。
元気がすでに損なわれているのであれば、ただそれを回復させればよいだけである。
よく見られる現代人の病気は、先ず元気が傷られて後に邪気がこれを侵したものである。
これは経に、『邪の湊るところ、その気必ず虚す。』とあるところである。
これは、主客が相互に影響しあうということを示している。
虚邪の原因は上記の通りである。
情志が消散することは神に関わっており、神は心に主られていることから、情志が消散することは心との関わりが強いことが判る。
治節が行なわれないのは気と関わりがあり、気は肺に主られていることから、治節が行なわれないのは肺との関わりが強いことが判る。
筋力の疲労困憊し易いことは血との関わりが強く、血は肝に主られることから、筋力の疲労困憊し易いことは肝と関わっていることが判る。
精髄の耗減は骨と関わっており、骨は腎に主られることから、精髄の耗減は腎との関わりが強いことが判る。
四肢が軟弱なのは肌肉と関わり、肌肉は脾に主られることから四肢が軟弱なのは脾との関わりが強いことが判る。
これらの内の一つを損なう段階は、まだ浅く、膚腠の段階に留まっている。
これらの内の二つを損なう段階は、やや深く、経絡の段階にある。
これらの内の三四を損なうと非常に深く、連なって臓腑に及ぶ。
その初期の状態は非常に微妙であるが、未病を治すためには、事前に充分用心すべきである。
そのために、人は中年の頃には、身体を充分調節し、その根基を再び振るいたたせ、残りの人生を元気に過ごすようにすべきである。
ここであえて心得じみたことを言うのは、歴代の経験がすでに積み重ねられ、このことが検証されているからである。
しかしこの、修理をするということも、語るのは簡単なことであるが、実行は難しい。
国家を修めるのに、良臣を得ることが難しいように、身命を修めるにも、良医を得ることが難しいからである。
しかし、古代より現代に至るまでの数千年来、この医学の全てを発揮し得たものはなかった。
そのゆえに今私は言おう、「私が医者であれば彼もまた医者である。良医がなんと多いことか。医学とは語り難いものである。良医たらんとするものは、この医道の難しさに惑わされないようにしていただきたい。」と。
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