逆数論





私は以前より《易》を読み、さまざまな人々がこれについて語っているのを聞いた。

過去を思い起こすことは順であり、未来を知ることは逆である。

《易》はその意味で逆数を説いているのである。

《易》に基づいてよく考え、その理を理解することができれば、それはそのまま天人の道を知り無窮無息の理を得たということであるが、これは逆数というものを理解して初めて可能になることである。






どうしてかというと、太極が初めて分かれてから、両儀によって観察していくと、一つは動一つは静といった陰陽を見ることができる。

陰陽の体は乾坤であり、陰陽の用は水火である。乾坤が定まればこれは互いに対応して交易する。

その一つは上にありその一つは下にある。

水火が動けば互いに流れ行き交い変易する。

その一つは降を主りその一つは升を主る。

このようにしてここに循環して止まることのない世界ができあがってくるのである。






これをまとめて天道とし、これを散じて人道とする。

《易》の義は非常に大いなるがゆえに、微妙な真理もそこに全て含まれているのである。

ここではとりあえず他の理論はさておいて、性理哲学によって《易》の義を明確にしていこう。






そこでは全て変易の数によって考えている。

この変易の数というのはすなわち升降の数のことである。

変易することに窮まりなければ、降る場合には升ることが主とならねばならない。

これがいわゆる逆数の意味である。






もしここで逆することがなければ、降ることはあっても升ることはなく、流れることはあっても返ることはない。

環のように循環していく大道は一体どこに、その根拠をおくことができるだろうか。

逆することによって逆と順とが交わり変化し、

陰と陽との対・

熱と寒との対・

升と降との対・

長と消との対・

進と退との対・

成と敗との対・

勤と惰との対・

労と逸との対・

善と悪との対・

生と死との対

といった逆と順とが、

それぞれに変化して窮まるところがなくなるのである。

このうち、逆によるものは陽によって生を得、順によるものは陰によって死を得る。

この意味を理解することができない者にあっては、伏羲の卦気の円図の意味をよく考えていくことによって、自ずと明らかになっていくであろう。






伏羲先天六十四卦円図

陽盛の極は、夏至の一陰に始まり、五・六・七・八と巽・坎・艮・坤と経過していき、天道は西から右行して、陽気は日に日に降っていき、万物は日に日に消えいく。

これは皆な順数ということができる。

順であるから徐々に気が去り、陰を得ることによって死の道を進むのである。

しかし幸にして、陰剥の極に至ると、冬至に一陽来復し、四・三・二・一と震・離・兌・乾と経過していき、天道は東から左旋して、陽気は日に日に升っていき、万物も日に日に盛となっていく。

これが逆数である。

逆であれば気が集まり陽気によって生の道を得ることができるのである。

これが天道の繊細微妙なる理であり、本来のありかたなのである。









もし人道についてこれを言うならば、人道は天道に基づき、天心はそのまま人心であるということができる。

天には陰霧があり日月がそれによって曇らされるように、人には愚かさがあって聡明さがそれによって曇らされることがある。

ゆえに順に従うことが多いものは、その人生が安易であることを喜び、安逸なことを喜ぶものである。

そして逆を避けることが多いものは、その人生が困難なものになることを畏れ、労することを畏れるものである。






しかし大人と言われる人を見るとそうではない。

たとえば皇帝のように尊い人物でもないのに、皇帝のような行為を行なえば、それはただ安逸で放縦であるにすぎない。

しかし尭舜は、人の欲望は私し易く公にし難く、道徳観は明らかにし難く曇り易いと繰返し反省した。

凡人にそのようなことをする者があるだろうか。

聖人のように知恵に溢れているのでなければ、聖人のように労することはなく、畏れることもないのである。

孔子の抱いていた戒慎や恐懼をいつも心に留めおくことが、

凡人にできるだろうか。






これらは他でもない、

ただその時代の天功として人の極を主るもの全てが、

順に従えば人生に流されので、順にあっても従わず、

逆から逃げれば人生が全うされないので、逆にあっても逃げないということを

知っていたのである。






もし武士が逆から逃げれば、屈することはあっても伸びることはない。

農民が逆から逃げれば、種はあっても収穫をともなわない。

技術者が逆から逃げれば、粗末なものはできるけれども精巧なものを作ることはできない。

商人が逆から逃げれば、財産を使うばかりで貯めることができない。






これを推し広めて考えていくならば、

修身斎家を言い治国平天下を言う者は、

逆境にあって一歩を進めれば日々人生を成しとげることができ、

逆境にあって一歩を退けば日々人生を見失うことになるということである。

原因があって結果がある。

この人生は非常に長いけれども、黄河の激流の中に岐立する砥柱のように確たる意志を持とうではないか!

これが人道の係わるところである。









天について語ることも人について語ることも、全て生の道を語っているのである。

この生を保つ道は医学において最も先進的である。

医学において生を保とうとする場合、陽道を離れることはできない。

逆数に背くこともできない。






しかし、医学は円通を貴び執われることがないのであるから、陰を全く考慮に入れないというわけではない。

陰を正すことによって陽を守っていくこともある。

順を全く用いないというわけではない。

順を用いることによって逆を成すようにもっていくこともあるのだ。

このように、性命の玄関は医学を第一とするのである。






しかし、医学界において有名な人物であっても、このあたりの事情に暗く、妄りに邪説を唱えて代々伝えて今に至るものが多くいる。

その説に従えば生を傷り、非常に深い害を残すことになる。

これを軒岐の道をさえぎる魔と言わずして、なんと言おう。

ああ!心ある医家はどこにいるのだろうか。

もしそのような人と巡り合うことができたなら、ともに語りこの道をもっと深めていきたい。

そして私の言の、正しいところと間違っているところをもっと明確にしていきたい。









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