夏月伏陰続論





夏期になると陰気は伏して内にある。

これは本来、天地の間における陰陽消長の理である。

しかし丹渓がその本来の意味から離れてこの論を用いたため、この論までもが人々に疑われるようになってしまった。






朱丹渓がどのように語ったのかというと、

「人と天地とは同一の消長関係にある。

旧暦の十一月には一陽生じ、陽が初めて動く、旧暦の一月には三陽生じ、陽が初めて地に出る、これは気が升るということである。

旧暦の四月には六陽生じ、陽は尽く上に出る、これは気が浮くということである。

人の腹は地に属す。

気はこの時期になると肌表に浮いて皮毛に散じ、腹中は虚す。

世に言うところの夏期になると陰気が伏して内にあるという状態となる。

ここでいう陰の字には、虚という意味がある。

これをもし陰涼ととるなら、大きな誤ちとなる。

この時期には陽が浮いてきて地上におよび、世の中は非常に暑くなって、燔灼焚燎・流金爍石するのであるから、陰冷の残っている場所はない。

そのような時期に妄りに温熱薬を投ずれば、実を実せしめ虚を虚せしめることになること疑いない。」






このように、丹渓は夏期になると腹中が虚すといったが、これはもちろん間違いではない。

しかし、腹中が陰冷するということを否定し、夏期に温熱薬を服用することを否定する段に至っては、私はそれを問題にしないわけにはいかないのである。









では私はこのことをどのように見ているのかというと。

そもそも天地の道には陰陽があってそれがただ消長するという形で変化していくだけのことである。

一方が来れば一方が往き、一方が升れば一方が降るのである。

このようにして造化の機会が互いの間に蔵され、機能していくのである。

経に、『陰は寒を主り、陽は熱を主る。』とあり、

また、『気実すれば熱し、気虚すれば寒す。』とあるのは、

この陰陽の一般的な性質のことである。






ここでは、夏期、陽気が全て外に浮いて陰気が内に伏している状態について語っている。

もし陰気が盛であれば陽気は衰える。

これが寒でなくて何だろうか。

陽気が外に浮けば中焦に気が虚す。

気虚はすなわち陽虚なのであるから、これが寒でなくて何だろうか。

このような考え方が不変の真理なのである。






これを最も明らかに現しているのが、井泉の水である。

陰暦の冬である十月・十一月・十二月の三ヵ月間は非常に寒いけれども、井泉の水は温かい。

盛夏の時期は外は炎熱状態だけれども、井泉の源は冷えている。

ここに外寒内熱と外熱内寒の意味が明確になる。

これは毎年同じように起こる現象であり、その時期に常見される主気によるものなのである。






主気と異なるものとして、客気がある。

天は五気を周らし、地は六気を備えている。

寒温が順に入れ変り、気の状態も異なってくる。

伏明の紀には寒清が非常に多くなる。

卑監の紀には風寒が起こり易くなる。

堅成の紀には陽気が陰によって治められて化す。

流衍の紀には寒が物を化して、天地は堅く凝結する。

太陽の寒水が天を司る時期には、寒気が下り寒清が盛になる。

太陰湿土が天を司る時期には、地は陰を蔵し大いに冷える。

その他もこれにならっておこる。






この客気は冬であろうと夏であろうと、その季節とは異なる気を引き起こして、人々を病気にさせる気である。

季節における気は、このように非常に複雑なものである。

にもかかわらず、ただ単に夏期は暑いという理由だけで、寒が存在しないとし、温熱薬の服用を禁ずることを、正論とすることができようか。

また、伏陰という言葉は本来、陰陽を寒熱によって対応させて考えているのだが、

この陰の字を虚として把え、

夏期、陰が伏している時期は虚が多く、

冬期、陽が伏している時期は虚が少ないと言えるのだろうか。






さらに、もし夏期に温熱薬を服用することを禁ずるのであれば、冬期には寒涼薬の服用を禁ずるのであろうか。

四季に起こる病気を見ていくと、盛夏には吐瀉することが多く、盛冬には瘡や疹が現われることが多い。

これは、冬期には内熱が多く、夏期には中寒が多いということを示しているのではないだろうか。

このように、夏期にも熱証も寒証もあり、冬期にも実証も虚証もあるのである。

その季節により証によって治療に対する考え方が決定するといっても、最も大切なことは今のその病状がどうなのかということである。






このように、夏期に陰が内に伏するということの意味は、天人が同じ気の中にいるということであり、非常に重要な意味を持っているものである。

しかし疾病を深く理解する場合には、その意味をよく理解し、深く考えていくべきである。

丹渓の論がもし理にもとるものであるなら、それに従う必要はないのである。

私がこのような論を示さなければ、丹渓の論はいまだに受け入れられていたことであろう。









最近、徐東皋なる輩が現われ、丹渓の説を引いて語っている。

「夏期には寒は無い。

世の人々はよく考えもしないで温熱薬を用いているが、これは世間の通弊でしかない。

もし夏期の陰が伏する時期に温熱薬を服すべきであり、冬期に陽が伏する時期に寒涼薬を服すべきであると言うのであるなら、孟子が冬に湯を飲み夏に水を飲んだということは、どう理解すればよいのだろうか。」と。






ああ、これは公都子の論法である。

一つのたとえをたまたま借りて語っているに過ぎない。

この場合の孟子の言葉は、陰陽をよく分析して深く考え、それを説明するために発しているものではない。

にもかかわらず徐氏は曲解して引用し、これによって自説を証明しようとしている。

経文の内容について、考えようともしないのである。

これは《易》の義と全く異なるものである。






《内経》には、『陰中に陽あり、陽中に陰あり。』とあり、

『寒は極まれば熱を生じ、熱は極まれば寒を生ず。』とあり、

また、『陰が重なれば必ず陽となり、陽が重なれば必ず陰となる。』とあり、

『相火の下、水気これを()く。君火の下、陰精これを承く。』とあり、

『これら全ては陰・陽・表・裏・内・外・雌・雄が相互に関係しあっている。

ために天の陰陽に応じているのである。』とある。






また《周易》の両儀についての解説には、

『陰があれば必ず陽がある。

両儀にして四象あり、陰陽の中に復び陰陽がある。

「泰」〔訳注:八卦のうちの地の卦が上にあり天の卦が下にある、六十四卦の一つ〕の義は、内は陽であり外は陰、君子の道長じ、小人の道消える。

「否」〔訳注:八卦のうちの天の卦が上にあり地の卦が下にある、六十四卦の一つ〕の義は、内は陰であり外は陽、小人の道長じ、君子の道消える。』とある。






これらの言葉から見ると、丹渓の論や東皋の引用による証明は、どれも私が信を置くことができないものである。

そのゆえに続論としてここに、記載した。









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