命門余義





命門の義については、《内経》には記載はない。

しかし、秦越人の言うところによると、

「腎には二つあるけれども両方ともが腎ではない。

左が腎であり右は命門である。

命門は諸々の神精の宿るところであり、原気の繋がるところである。

男子はここに精を蔵し、女子はここに胞を繋ぐ。」

ということである。






しかし私はそれだけで言い尽くされているのか、誤りはないものか、納得しきれないものがあった。

そのため〈三焦包絡命門弁〉を《類経》の最後に付しておいた。

私はそれで大体言い尽されているのではないかと思っているのだが、もし、まだ言い尽されていない部分があり、後人を覚醒させるのに充分なように、ここにさらにその蘊奥をつくし、下記のように条文にまとめた。










一、命門は精血の海・脾胃は水穀の海であり、ともに五臓六腑の本である。

また命門は元気の根・水火の宿るところであり、五臓の陰気は命門によって滋養され、五臓の陽気は命門によって活発に機能していく。

脾胃は中州の土であるけれども、火がなければ万物を生じさせることができない。

春気が下から始まり三陽が地に広がることによって、初めて万物は化生されるのである。

命門の陽気も、それが下にあるがゆえに脾胃の母となりうるのである。




私はこのことを、

「脾胃は潅注の本であり、後天の気を得る。

命門は化生の源であり、先天の気を得る。

脾胃と命門との間には当然その本末先後がある。」と語った。

李東垣は、「補腎をしようとするならば、補脾を中心に考えていくべきである。」と語り、

許知可は、「補脾をしようとするならば、補腎を中心に考えていくべきである。」と語っている。

この両氏の説にはそれぞれの理由がある。

早速その内容を論じていこう。









一、命門には火がある。

これが元陽であり、物を生じる大本となる火である。




しかし人の稟賦(ひんぷ)〔訳注:生まれながらの強さ〕には強弱があり、元陽そのものにも盛衰がある。

陰陽には勝ち負けがあり病気の治療には微甚がある。

これは火の強弱盛衰によって論じていくことができる部分である。

ここではその大綱について説明しよう。




一陽の元気は必ず下から昇り、三焦を通じて全身に散布されるが、その機能はそれぞれの部位において特徴的に現われる。

下焦の部位にあっては大地のようであり、化生の本となる。

中焦の部位にあっては竈釜(そうふ)〔訳注:かまどや鍋〕のようであり、水穀の炉となる。

上焦の部位にあっては太虚〔訳注:①天空②宇宙の根源たる大元気、宇宙生成の初め〕のようであり、神明の領域となる。




下焦という大地には肥瘠があり、それぞれ産出されるものが異なっている。

山川の地気には厚薄があり、それぞれ蔵蓄されるものが異なっている。

この聚散する力を操るものは、全てその陽気による。

人間の下焦においては、その一を得れば一の用があり、その一を失えば一の虚が存在するという具合にダイレクトに反応がでてくる。

この元陽が、人間の寿命・生育状態・精神力・精血の状態・病気と治癒段階の状態の大基となり、この元陽の充足度が消・長・満・縮の変化を主るのである。

これが下焦における火の内容である。




中焦は竈釜のようなものである。

そもそも飲食が人身を滋養するその大本は水穀にある。

消化力が強ければ身体も強壮であり、消化力が弱ければ身体も衰弱する。

この消化力は胃中に存在する、熱い釜のような陽気に基づいている。

胃中の陽気が非常に強力であるため、朝食べたものは昼までにはすでに消化され、昼食べたものは夕方にはすでに消化されているのである。

このように竈釜は、その火力が一つ少なければその調理する力もその分だけ遅れ、火力が一つ増えればその調理する力もその分だけ速くなり、火力が非常に弱ければ全く調理することができなくなる。

このことから、その陽気の度合を量ることができる。

このように、脾胃の消化力の有無・食欲の有無は全て陽明胃の気の強弱に基づき、またそれによって陰寒の邪に犯されるか犯されないかということが決まってくるのである。




中焦が病むと、徐々に痞し・徐々に脹し・膈噎し・嘔し・消化力が減退し・腹部が膨満して消化しきれず・呑酸噯腐して消化できず・腹肚疼痛して終日飢えず・清濁を分かつことができず・完全に消化することができないといった状態になる。

しかし、飲食物を消化することができれば、それは必ず運行されるが、もし消化することができなければ、必ず留滞していく。

消化されて運行されれば気血に化していくが、消化されずに留滞されるなら積となり痰となっていくのである。

このように、胃の気がしっかりしていなければ健康は望めないのである。

ではこの健康とは何によって支えられているのであろうか。

火力の有無ではないだろうか。

今、痞や脹や呑酸噯腐等の症状を治療していく場合に、その原因が熱にあるのか熱にはないのかということを問題とすることなく、必ず胃火によるものであるとしてそれを瀉すならば、残っている胃火がそれに耐えることができるだろうか。

これが中焦における火の内容である。




上焦は太虚のようなものである。

その変化は必ず神明に基づき、神明は必ず陽気に根ざす。

上焦の火は気を生じるがまた逆に気が無ければ全うされない。

上焦の火は神を化すが神が無ければ全うされない。

陽気が下にあれば全身が温暖となるため、相火はその位置(。。)を中心として評価される。

陽気が上にあれば昭明となるため、君火はその明るさ(。。。)を中心として評価される。

そもそも陽気が勝てば陰気は衰え、光源から離れれば空になっていくようなものである。

ゆえに五官が治まっていれば全身が充実してくるのである。

陽気が衰えれば陰気が勝ち、陽気が陰気に抑えられる。

そうなると聡明さが減少していき神気が滅びる。

凡人に、声・色・動・定や智・愚・賢・不肖の違いがあるのは、陽徳の機能の状態が原因となっているのである。

これが上焦における火の内容である。







三焦のそれぞれについて火の内容を論じれば、その各々に主とするところがあるのに、どうして全てが命門に帰するのであろうか。

そもそも水中の火は先天の真一の気であり、坎水 坎水の卦 の中に蔵される。

この陽気は下から上って後天の胃気と交わって、化す。

これが生生の本となるのである。

花が美しく咲くためにはその根がしっかりしていなければならない、

竈釜が盛に燃え盛るためには柴薪(さいしん)が充分になければならない。




真陽がその最も深い淵源から発しているのでなければ、総ては無根の火となってしまう。

火があって根がなければ、気を病んでいるのである。

元気が盛なように見えてもそれは、本来の元気ではない。

ゆえに《易》に、雷の卦 震雷の卦 が地下にあるものを復の卦とするのである。
〔訳注:八卦の雷の卦が、八卦の地の卦の下にあるものが、六十四卦の復の卦。一番下の陽爻以外はすべての爻が陰交であり、冬至の時期にあてはめられ、一陽来復と呼ばれ、よく引用される〕

火の標は上にあり、火の本は下にあるということに、よく注目しなければならない。




また火は燥に就き、寒を非常に畏れる性質がある。

もし命門において陰が勝てば元陽は畏れて避け、龍火の本体を命門の中に蔵しておくことができなくなる。

そのためこの龍火は遊散して帰らなくなり、煩熱・格陽等の病気を起こす。

これを上手に治療するものは、その龍火の性質に従って陽和の気を命門の坎中に入れ、その窟宅を建て直すことによって、同気を互いに求めさせ、龍火を招き誘う。

このようにすると無根の火となり虚陽となって暴れまわっている龍火も、その本来の家である命門に必ず帰ってくるのである。

ゆえに、『甘温は大熱を除く。』と言うのである。




しかしこの理をよく理解できない愚昧な人々は、虚陽をそのまま実熱とし、温かい陽和の気によって火を養うということを考えられずに、ただ寒涼剤を用いて火を滅ぼそうと懸命になってしまう。

このような治療をしているようでは、いかに懸命に人々を救おうと思っても、必ずこれを悪化させることになるということは、火を見るより明らかである。

これが実に医家の活人法の最も重要な部分である。

既にこの医道を行なおうとするならば、先ず最初にこの理をよく理解しなければならない。




また三焦に客熱としての邪火がある場合も火が原因となっているのであり、必ずそれを除去しなければならない。

しかしこの火を除去することは難しくはない。

正気の虚によって起こった火ではないからである。

医道を学んでいこうとするものは、このように深く邪正の二字の意味内容を理解し、正しい治療法を手の内に入れなければならない。









一、命門にある生気は、乾元不息の生気である。

生命が絶えたときに初めて休む生気である。

陽は動を主り、陰は静を主る。

陽は升を主り、陰は降を主る。

ただ動じただ升るがゆえに陽は生気を得、

ただ静かでただ降るがゆえに陰は死気を得る。

ゆえに乾元の生気は下に始まって上に盛となり、升ることによって生に向かい、

坤元の生気は上に始まって下に盛となり、降って死に向かう。

ゆえに陽は()の中に生じ、前を升り後ろを降り、

陰は(うま)の中に生じ、前を降り後ろを升るのである。




このように陰陽の分かれ目は毛髪のようにわずかな違いしかないのであるから、それを千里もあるかのように語ることは誤りである。

また病における死生の判断も、実はただこのような升降機能の毫釐(ごうり)の差の中にあるだけのことである。

水は暖まると気化して升り生気に溢れ、

水は冷えると氷となり降って死んでいく。

このように腎気が独り沈むと、生を奉ずるものが少くなる。

これが生気の理である。

人の生気においても、まさにこれと同じことが起こっているのである。




たとえば臓腑に生気があり、顔色に生気があり、声音に生気があり、脉息に生気があり、七竅に生気があり、四肢に生気があり、二便にも生気がある。

生気とはすなわち神気である。

神は形から生ずるのであるから、形のことも詳細に理解していかなければならない。

形が衰えた場合は急いで培い、〔訳注:神を〕生じることができなくなることを恐れるべきである。

どうしてさらに傷られることに耐えることができよう。

その衰えがさらにひどいものは言うまでもないことである。




ゆえに明師がこれを察する場合には、

どの部分がすでに虚し、どの部分がまだましか、

どの部分が生気を益し、どの部分が生気を損い、

どの部分を先ず治療するとその病気を攻めながら生気を保つことができ、

どの部分を先ず治療するとその生気を固め病気を防禦するによいかを把握していくのである。




病気について懸命に考えるだけでなく、生気をどうするかということもまた大切なことなのである。

現状がどうであるかということだけでなく、何日か後にどうなるのかということもまた大切なことなのである。

根本的な問題が明らかに解決されていなければ、全ては目先だけの治療となるだけなのである。







一応このように論じてみたが、この理論以外にまた別の考え方もあるので紹介しよう。

それは生気というものを少陽の気として考える考え方である。




そもそも少陽の気は進むことはあるが退くことのない積極性を持つものである。

このような気がどこから生じてくるのかというと、やはり根本から生じて来るのである。

そしてこの気がどのように用いられるのかというところに、最も玄妙な真理があるのである。

そもそも人生において貴ぶべきものは気そのものである。

この気が出入する力のもとは呼吸にある。

そしてこの呼吸の気数はここ少陽に宝蔵されているのである。




「河車の済は轆轤(ろくろ)にある」と言うが、神気はこの少陽の気によって転運されているのである。

神気の進退・得失は全てこの生息の間にあり、長寿を全うするか早逝するかという鑑別点は、この生息の間にあるのである。

経に、『神を得るものは昌え、神を失うものは亡ぶ。』とあるが、これは少陽の生気のことを語っているのである。

私はこの少陽の生気を剥ぎ取るような治療をするものを大勢見てきたため、その考えを正さずにはおれず、ここに特にその意義を明確にすることとした。









一、命門は門戸であり全身を強固にする関鍵となるところである。




経に、

『倉廩を蔵することができないものは、門戸の要とはならない。

水泉の止まらないものは、膀胱がそれを蔵することができないのである。

守ることができるものは生き、守ることができないものは死す。』とあり、

また、

『腎は胃の関門である。関門が利さなければ水が聚まるのはそのためである。』とあり、

また、

『北方の黒色は、身体に入れば腎に通じ、二陰に開竅する。』とある。

このように北門の主は腎であり、腎を動かすものは命門である。

いわば命門は、北極星の中心となる星であり、陰陽の中枢を司るのである。




陰陽が和すれば出入は正常であり、陰陽が病めば開閉する際の秩序がなくなる。

癃閉して尿が通じないものは、陰竭して水が枯れ、乾ききったために水がめぐらなくなっているのであり、

滑泄して止まらないものは、陽気が虚して火が敗れ、収摂しようにもそれを主るものがなくなっているためである。

陰精が既に竭している場合は、水を壮んにしなければ絶対に水を行らすことはできない。

陽気が既に虚している場合は、火を益さなければ絶対に関門の開閉を固めることはできない。

これが先ず基本的な法である。




しかし、精は気を行らし、気は水を化すのであるから、この精と気の間には、分けて考えるべき部分と、分けて考えることのできない部分との間に妙用がある。

明敏な者はここでよく考え悟っていただきたい。

この部分には真に言うに言われないものがあるからである。









一、命門には陰虚がある。

そのために邪火が偏勝するのである。

邪火が偏勝する原因は真水の不足による。

その病気は、煩渇・骨蒸・(亥欠)血吐血・淋濁遺泄などである。

これが火証であることは明らかだが、その火の強さは邪熱や実熱の比ではない。

実熱の火は急にやってきて必ず明確な原因がある。

虚熱の火は徐々にやってきて、長期にわたる生気の損傷が原因となることが多い。

これが虚火と実火とが大いに異なるところである。




火を治療する場合には、実熱の火は寒薬を用いて抑え込み、水によってその火の勢いを絶つようにする。

「熱はこれを寒する」と言われる方法がこれである。

虚熱の火は寒薬を用いて抑え込んではいけない。

「労はこれを温める」と言われる方法がこれである。

どうしてそのような方法をとるのかと言うと、虚火の原因が水の虚にあるためである。

そのためただ水を徐々に補い、水と火のバランスが取れるように持っていくのである。

そのようにして陰陽が調和すれば、病気は自然に癒えていく。




もし火を取り去ろうとして水を急に増やしていくと、虚してしまっている水を補うことができないだけでなく、残っている火も取り去ってしまい、陰陽ともに傷ることになる。

また苦寒の薬剤は、生気を升騰させる作用は全くないため、苦寒の薬剤を用いて虚を補おうとしても虚を補うことはできない。

私がこの虚熱を治療する場合は、専ら甘平の薬剤を用いて真陰を補うことにしている。

この方法では、すぐに治るというわけではないが、害になることが少ないからである。

そのような治療を基本にして、次に虚に乗じているものは何かを考えて、それをサッと清解したり徐々に温潤の薬剤で補い、生気が徐々に回復してくるのを待つのである。

脾気がもし健康であれば、熱が退いて肺が徐々に潤い、咳も徐々に取れていく。




この方法は徐々に回復するということが最も良い。

この方法によって生命をつなぎ止めたものがたくさんあるのだ。

もし机上の知識によって黄蘗を補陰の薬剤とするならば、すぐに腎気を傷って泄瀉し食欲がなくなり、その誤ちがすぐ明確になるであろう。









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