小児補腎論





王節齊は、

「小児には補腎の法は無い。

小児は父の精を稟けて生まれ、男子は十六歳になって始めて腎が充満する。

もし既に充満した後、妄りに用いて腎精を虚損させたならば、薬を用いて補うことができる。

もし受胎のときすでに先天が不足していれば補うことはできない。

先天的には足りているならば当然補う必要はない。」

と語っている。

この言葉には非常に大きな誤りが隠されている。






男女の精が妙合して凝結し、両精が合して始めて形ができあがる。

ここでできあがる形が精である。

精はすなわち形であり、精を治療すれば形を治療することができ、また逆に、形を治療すれば精を治療することができる。

人の年代の初期と中期とでは、その精の強さには盛衰がある。

生まれたての頃に身体はすでに出来上がっているとはいっても、その精気はまだ豊富ではない。

女子は十四歳で男子は十六歳で天癸(てんき)が至り、精が盛になってくる。

天癸が至る以前は、精はまだ盛にはなっていない。

しかし、精がまだ盛になってはいないという理由で、そこに精が無いとは言えない。






精はまた至陰の液である。

十二臓によって生化されたものを腎が蔵しているに過ぎないのであって、腎だけからできているわけではない。

《素問・上古天真論》に、『腎は水を主り、五臓六腑の精を受けてこれを蔵す。』とある。

これによって、精の源がただ腎だけにあるわけでは無いということを理解しなければならない。

王節齊はこれを誤解して、精の源はただ腎だけであると考えていたわけである。

もし腎精がまだ泄れ出ていないからという理由で腎を補うことができないというのであれば、五臓の精が、先天的に虚していたり、後天的に虚せしめられたりした場合、それが外に泄れ出ていないから補うことができないと言うのであろうか。






そもそも小児の精気が未だ盛になり難い理由は、後天の陰気が不足しているためである。

父母に色情が多かったため水が虚し、先天の陰気が不足しているからである。

陰虚の本を治療するということを知らなければ、どうして人為によってその本元を調え、化精することを助けることができようか。

これは最も根本的な理である。

深く理解していただきたい。









小児の病気を例にとってこれを論じてみよう。

小児の病で最も多いものは、驚風の類である。

この驚風が起こると、角弓反張・戴眼(たいがん)〔訳注:眼睛が上に上って動かなくなっている病気〕・斜視・抽搐(ちゅうちく)などの症状が現われるが、その原因は総て筋肉がひきつることによるのである。

つまり血が筋を養うことができないために筋がひきつるのである。

真陰が虚損するために血虚が起こるのである。

これは水が衰えているということの明らかな証拠ではないだろうか。






腎は五液を主るにも関わらず、血は腎に属するとは言わなが、これを私は理解できない。

肝腎の病を同一のものとして治療すると言いながら、このように筋の病気が現われているときは、腎水を捨てて肝木を滋養しようとすることを、私は理解できない。

また太陽経と少陰経とは互いに表裏関係にあり、その経は脊背を循って目の上網となる。

この角弓反張・戴眼といった症状が小児に現われることが多いのに、これを腎の陰虚による病気であるとはされないことを、私はまったく理解できない。

陽邪が亢極し陰が竭しているのであるから、これは非常に危険な状態である。

もし臓気がさらに傷られて腎が困窮すれば、死に至るのである。






このように腎は、天の根であり、生息の基である。

小児において最も大切なものなのである。

かかるがゆえに小児の病気には腎気に関するものが多いのである。

にもかかわらず、小児には補腎の法は無いと語ることは、どういうことであろうか。

このような言を決して、信じてはいけない。









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