弁病に新知見を創出



弁病において旧説に拘執せず、
敢然と新知見を創出している。



景岳は弁証の方面ではまず陰陽を審らかにするということを綱領 として提出し、『病気を診断し治療を施そうと思うなら、先ず陰 陽を医道の綱領として明確に理解しておくということが必要であ る。陰陽の判断を間違えることがなければ、治療においても誤る ことがない。』《伝忠録・陰陽篇》と断じている。

そして次 に「六弁」の問題について、『六変とは表裏・寒熱・虚実のこと である。これはまさに医学理論の関鍵であると言えよう。この六 者の概念をよく理解するなら、どのような病気も掌を指すように 簡単に把握することができる。』《伝忠録・六変弁》とその 中心を明確にし、この六変のうちでも『特に虚実は表裏寒熱の四 者全てと深く関係しており、弁証していく上でも最も重要な部分 となる。』《伝忠録・本を求めるの論》と述べている。

寒熱 には真仮があり、表裏には相兼があり、虚実には兼挟があり、陰 陽の中にはさらに陰陽がある。六変をさらに陰陽によって統合し、 交互に総合的な運用を試みて、詳細な論述を彼はしている。

これ らを総合的に述べているのは、『六変が明確となり、陰陽が明確 となれば、天下の病はこの八種類から逸脱することはできない。』 《伝忠録・明理》という言葉である。このようにして彼は八 綱弁証の学説を発展させその内容を豊かにした。






その次には「十 問」の問診および弁証の方法が述べられており、そこでは、四診 合参することによって病情を全面的に認識するということが強調 されている。

十問とは『診察と治療の要領を歌ったものであり、 臨証において最も最初に行わなければならないことである。』 《伝忠録・十問篇》とし、臨証の際には四診を合参する必要 があるということについては、『詳しくその病の原因を問い、そ の声と顔色を観察し』、『このようにして診察していくならば、 必ずその真を得ることができるであろう』と語っている。しかし もし『ただ一診〔訳注:脉診〕だけで判断すべきであるとするな らそれは、自分の指先の感覚のみを信じて治療して、誤治をする ことになるであろう』し、『実際に脉を取ってみても定かに判別 できないときに、どうして脉診だけで誤ちなく治療することがで きるだろうか?』と述べている。《脉診章・四診》

さらに汪石山の《矯世惑脉弁》を引用して中医たるものは脉診だけに頼る べきではないということを強調している。

これは、事実と完全に 一致しており非常に臨証に即した説である。






病因病理の方面での創見は、「非風」という言葉を作って「非風」 の説を唱えたことである。

中風という症状を、宋代以前の医家達 は皆な外感の風邪が原因であるとして論治していた。

劉河間・李 東垣・朱丹渓の三人にいたると、そのような誤ちを改めようとし て、水不制火〔訳注:水が火を抑制することができない〕・形盛 気衰〔訳注:形態は充実しているように見えても気は衰亡してい る〕・湿痰によって熱や風を生じる、といった原因によって発症 するという内因の説を唱え、

また王安道はさらに、真中風・類中 風といった弁別を編み出したが、どれも中風の病因病理を完全に は語り尽すことはできず、中風という病名を安易に使っただけの ものにすぎなかった。

これが景岳においては、まず非風の説を唱 えて非風という病名を確立しているのである。

彼はこの病は『も ともと外感ではないのだから風の字をあてるのは適切ではない』 とし、『すでに風という名前をつけられているのであれば、風に よって治療しなければならないのではないだろうか?風によって 治療しようというのであれば、散風の薬を用いなければならない のではないだろうか?・・・(中略)・・・もし名前をつけよう とするのであれば正しい名前をつけなければならないであろうし、 証を確定しようとするのであれば正しい弁別をしなければならな いであろう。』として、

この病の原因は、『本来全て内傷頽敗に よるものであって、外感風寒によるものではない。』だから、 『これを非風と名づければ、人々に対してその病因病理を明確に することができるであろうし、人々もこれが本来風の証ではない ということを理解することができるであろう。』《雑証謨・非 風》と規定している。

また景岳はここからさらに一歩を進め、 この病理はに肝木が関係していると考えた。『肝は東方の臓であ り、血を蔵し風を主る。肝が病めば血も病んで、筋が養われなく なり、筋が病めば掉眩・強直といった症状が至る所に起こってき て、風の症状が百出するのである。このことが、全ては肝に属し 風に属するという意味なのである。』と述べ、

さらに明確に、 『風は内傷の裏証である。厥逆内奪に属する症候である。』 《雑証謨・諸風・中風は風に属すを論ず》と語っている。

こ のような理論は、中風の病因病理を考えていく上で非常に新しく 画期的なものであったため、後世、中風の弁証治療をしていく上 で、非常に大きな影響を与えることになった。






また、当時、京師〔訳注:北京〕において、煙がこもったために 人々が亡くなる事件の原因について、それは「煤毒」によるとし て、「透気」の方法を用いて予防することを彼は提案している。

『燕京〔訳注:今の北京〕という土地は非常に寒いため、人々は その部屋を紙を使って糊付けし、また眠っている最中であっても 火をつけたままにして、多くの煤を用いて部屋を暖めているので ある。部屋が狭くよく密閉されているほど火による事故が多くお こる』ということを観察し、

『火は炎上する性質があるが、それ が泄れでる所がなければ充満して下るものである。人々が煤の毒 にやられるのは、夜半を過ぎた頃が多く、その頃は部屋中に水火 の気が充満し、それが下って人の鼻に届くようになるために、呼 吸が閉絶して意識不明となって死んでいくことになるのである。』 と考えた。

そしてその予防法として、『ただ、格子戸に穴を開け るとか窓紙を少し開けておくと充満した気が徐々に出ていき、人 の口鼻まで下りてくることがないので、まず心配はいらない。』 《伝忠録・都(燕京)の水火を説く》と述べている。

早くも 三百数十年前に、煤気による〔訳注:一酸化炭素〕中毒について、 かくも明確に科学的な認識をもつことができたということは、非 常に画期的なことと言うべきであろう。






傷寒熱病の伝変と証治についても彼は多くの新しい見解を提出し ている。彼がまず明確にしたことは、その伝染性と伝染経路であ る。

彼は語っている、『その病に罹患した一人が癒えなければ、 親族など近くにいる者達は毎日その気と接触しその気を鼻から入 れているので、必ず伝染することになるであろう。』《傷寒典 ・病は速やかに治療するべし》

さらに、『瘟疫は天地の邪気で ある。・・・(中略)・・・気は鼻を通り、鼻から脳に通じてい るので、毒は脳の中に入り、諸経に流布されて、人を感染させる のである。』《雑証謨・瘟疫》としている。

次に彼は傷寒の 伝変について、『傷寒の伝変について考える場合、日数に拘わる べきではないし、また伝経の順番にも拘わってはいけない。』 《傷寒典・伝経を弁ずる》と述べ、ある経が病んでいれば、 その経に病が属し、その経を治療するとしている。

また彼は傷寒 の病が足の経にのみ伝わって手の経には伝わらないとする見方を 批判して、『人間の気血というものは全身を運行し、流れて休む ことがないものである。しかるに手の経には邪が入らないという のはどういうことであろうか?』《類経・巻十五傷寒》と述 べている。

第三に、衛や営において気分・血分・精分といった病 理的な伝変の深さについて述べている。

傷寒に罹患し始めたとき に、発熱・悪寒し・無汗のものは、邪が皮毛を閉ざしているもの である。これを『病は衛にある』という。もし筋脉が拘急し、頭 部や背部の骨節が疼痛するものは、邪が経絡に入っているもので ある。これを『病は営にある』とする。《傷寒典・初めて傷寒 を診る法》

景岳はそこからさらにまた一歩を進め、傷寒の邪気 が人体に侵襲していく形にはこれといって明確に決まったパター ンはない。『あるいは陽経の気分に入り』『あるいは陰経の精分 に入る』として、『傷寒病における蓄血証は、熱結が裏にあって 血分を搏ち、下焦に留・して循らない状態のことである。』 《傷寒典・脉を論ずる》および《蓄血》と断じている。

こ のような観点は、同時代の医家である呉又可がその《瘟疫論》の 中で提示しているものと非常によく似ている。






傷寒病の治療において真っ先に掲げているのは、『傷寒病を治療 する場合に、その罹患した日数に拘わってはいけない。ただ表証 を見ればその表を治療し、裏証を見ればその裏を治療していくべ きである。』《傷寒典・治法》というように、『その現われ ている症状にしたがって邪気のある経を弁別し、病んでいる経に したがって治療を施していく』《傷寒典・治法》という基本 原則である。

発汗によって表を解く方法としては、辛温・辛涼・ 辛平の三種類のそれぞれ異なった解表法を提示して、『時寒の邪 によって火が衰えて内にも熱邪がないために表が解けないものは、 辛温の熱剤を用いてこれを散ずるとよい。時熱の邪によって火が 盛んとなり表が解けないものは、辛甘の涼剤を用いてこれを散ず るとよい。その時の気が全く平で表が解けないものは、辛甘の平 剤を用いてこれを散ずるとよい。これが解表の要法である。』 《傷寒典・治法》と語っている。

また『補中によっても表を 散ずることができ』『寒中によっても表を散ずることができる』 として、瘟疫の証治における『汗散法』の中で、平散・温散・涼 散・兼補兼散という四法に総括して、さらに深く明確に論じてい る。

また清利解毒の方面においては、白虎湯・白虎加人参湯・黄 連解毒湯・三黄石膏湯・犀角地黄湯・竹葉石膏湯等の方剤の運用 方法を述べ、玉女煎一方を創製して、『熱が甚だしく煩渇して安 らぐことができないものには、雪梨漿を時々与えるとよい。』 《雑証謨・瘟疫・清利法》という増液生津の治法を提出して いる。






この外に、傷寒病における両感証と合病・併病についても、景岳 は多くの明晰な理論を述べている。






このように外感熱病についても、景岳は数多くの点で創造的な観 点を提出し、後代の温病学の発展に一定の影響を及ぼしたのであ る。







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