一息は何至?



いったい一息は何至なのでしょうか。


《素問・平人気象論》に、

『一回の呼気に二回脉動し、一回の吸気に二回脉動し、呼吸定息で脉が五動し、閏しもって太息する人を名づけて平人といいます。』とあります。

《難経・第一難》に

『人の一回の呼〔訳注:吐く息〕に脉は三寸流れ、一回の吸〔訳注:吸う息〕に脉は三寸流れます。つまり一回の呼吸定息で、脉は六寸流れます。 』とあります。

不思議に思いませんか?







《素問・平人気象論》によると、呼気に二回、吸気に二回、その他に一回の脉動がどこかで起こっているということが述べられています。この、呼気吸気以外の脉動を、滑伯仁は『閏』の脉一回とし、脾の脉としていました。『閏』の脉を脾の脉として加えることによって、《素問・平人気象論》の一息五至に合わたわけです。『閏』という、「変」の事態を、脾という「常」の事態と同等に扱った滑伯仁に対する批判は、第四難の解釈のところで詳細に述べてあります。もしどうしても『閏』と対照させたいのであれば、それは五臓以外の臓である心包をもってするべきであろうことは、第四難解釈の下の方を読まれると理解できるでしょう。







それはさておき。

これに対して《難経・第一難》では、呼気に三寸、吸気に三寸、足して六寸を呼吸定息一回の呼吸とし、数もそのまま足して六寸としています。このことは、そのまま読めば、呼気吸気を数えているとき以外には呼吸は存在しない、あるいは呼気吸気という言葉を使用しているときそれは呼吸すべてを表現している、ということになります。

これを《素問・平人気象論》と並べてみると、

やっぱり不思議ですね。

《素問》では、一息五至と言っています。

これに対して、《難経》では、「閏」の一脉を認めず、一息四至と言っているように見えます。このことはさらに十四難で明確になります。そこでは明確に『一呼再至を平』と述べています。これはつまり、一息四至が平人の脉動数であるということを、明確に意味しています。どうなっているのでしょう。

ということで、広岡蘇仙のこの部分の解釈をみますと、『一息四至・五至を平と言い、平常の状態であると判断します。』と、せこくごまかしてあります。

《難経》原文を読むと、呼気と吸気以外の呼吸を認めず、それぞれ再至〔注:二回の脉動を〕する、としか書いていないわけですから、これは一息四至ということでしょう。この書き方のまま上の『閏』の脉を強引に加えると、脉は動じているけれども、呼吸もせず脉も流れていないという、不思議な自体が想定されているということとなります。







ここに《黄帝内経》のもう一冊、《霊枢》という書物があります。その《五十営》には、

『人の一回の呼〔訳注:吐く息〕に二回脉動し気は三寸行き、一回の吸〔訳注:吸う息〕に二回脉動し気は三寸行きます。呼吸定息で、気は六寸行きます。』

と、述べられています。まるで、《素問・平人気象論》と《難経》を統一して述べてられいるように見えます。けれどもこの《霊枢・五十営》においては、「閏」の脉一動を数えていないのだ、ということが明確に理解されるでしょう。つまり、《難経》第一難と同じ概念で書かれていると考えられます。

もし、《難経》や《霊枢・五十営》を、《素問・平人気象論》流に考えるならば、呼気に三寸、吸気に三寸、呼吸定息で七寸半と書かれていなければなりません。そうじゃないと、(繰り返しますが)呼吸の時以外に脉が一回打っているはずなのに、脉は流れていないということになります。そんな馬鹿なことはあり得ませんものね。

《難経・第四難》の解釈のところで触れたように、私の解釈にしたがうならば、この《霊枢・五十営》と《難経・第一難》と《難経・第四難》との間に矛盾はありません。

一息四至、一回の呼吸定息で脉が四回動ずるということです。そして、それ以外に脉が動ずることは「ない」ということです。







しかし、滑伯仁以来の《難経》解釈によると、呼吸定息で閏の脉をもうけて五臓と対応させて脾の脉として、一息五至となります。このようにすると、《素問・平人気象論》の『呼吸定息で脉が五動』するという記載と符合させることができるためです。

ここに一息四至の論と、一息五至の論との違いが生じてきます。







さらに、張景岳はその《類経》で、《素問・平人気象論》の『一回の呼気に二回脉動し、一回の吸気に二回脉動し、呼吸定息で脉が五動し、閏しもって太息する人を名づけて平人といいます。』という部分を、次のように解釈しています。

『常人の脉は、一呼二至、一吸二至します。呼吸定息とは、すでに一息が終わって次の一息がおこるまでをいい、脉はさらに一至します。この故に五動すると〔伴注:《素問・平人気象論》では〕言っているのです。閏は、余りです。閏月〔伴注:うるうづき〕と言うようなものです。平人は常の呼吸の外に、間〔伴注:マ〕として非常に長い呼吸があります。これを、閏しもって太息するとします。これは五至だけに止まらないものです。これがすなわち平人の、病気でない時の常度です。このようにして定息を総計すると、太息の数はだいたい、一息に脉六至とすべきです。このため、《霊枢・五十営》で『呼吸定息は六寸流れます』と述べているのです。すなわち一至に一寸するということと合します。』と。

とうとう、一息六至という文言まで出てきてしまいました。







一息六至・・・・・・・・・・。

《難経・十四難》には、

『一呼再至を平』と言うとあり、一息四至の脉状は平、『三至を離経』として、一息六至の状態を、平常の状態を逸脱している段階すなわち病気のなりはじめであると述べられています。

つまり、張景岳が平人の常度としている、一息六至は、実は病脉の初期であると《難経・十四難》では位置づけられているわけです。このことを張景岳はどのように位置づけているのでしょうか?


ということで、《類経》の〈呼吸至数〉をみると、

《素問・平人気象論》の、『人の一呼脉に再動、一吸脉に再動して躁し、尺が熱するものを温といいます。尺が熱せず脉が滑のものを風を病むと言います。脉が渋のものを痺を病むといいます。』という文言に対する解説として、淡々と《難経》を引用しています。すなわち『もし定息太息によらずに呼吸各々三動するときは、これは一息六至です。難経ではこれを離経といいます。』と。つまり、常人の脉数は一息六至で正常だけれども、病人であれば一息六至は病脉であると解説しているということになります。

うーーーむ、この言葉に説得力があるのでしょうか・・・。張景岳以降現在の中医学に至るまで、この解釈が無視されているところをみると、歴代の解釈家はこの呼吸定息一息六至という張景岳の説に対して批判的であるということが、暗示されていると思われます。







さて、一息四至・五至・六至、それぞれの説が存在しています。

ためしに、計算してみましょう。

《難経・一難》によりますと、人は一日一夜に全部で一万三千五百回の呼吸をし、脉は全身を五十回循ります。脉の長さは一十六丈二尺とあります。ということは、一回の呼吸で、

1620(寸)×50(回)÷13500(息)=6(寸)進むことになります。

これは、同じ一難に、

『人の一回の呼〔訳注:吐く息〕に脉は三寸流れ、一回の吸〔訳注:吸う息〕に脉は三寸流れます。つまり一回の呼吸定息で、脉は六寸流れます。』 と書いてある通りです。

これと同じ数字は、《霊枢・五十営》にも書かれています。すなわち

『人の経脉は上下左右前後二十八脉、全身で十六丈二尺が、二十八宿に応じています。漏水下ること百刻で昼夜を分けています。故に人の一呼に脉は再動し(二回動じ)、気は三寸流れます、一吸に脉もまた再動し、気は三寸流れます。呼吸定息で気は六寸流れます。』という言葉です。

一回の呼吸で六寸脉の長さが進むということから、脉動一回で一寸進むだろうと考え、張景岳は一息六至が常脉であるということ考えを呈示しているわけです。

しかし、脉動一回で1,5 寸(一息四至の場合)あるいは、脉動一回で1,2 寸(一息五至の場合)であっていけない証明はどこにあるのでしょうか?どこにもありません。

もし、寸口の脉の長さが一寸であれば、そこで全体をみるのであるということから、一息に一寸流れると考えると、景岳の言葉が首尾一貫することとなります。しかし、《難経・一難》の指示によると、寸口の部位は一寸九分ということですから、この考え方も通用しません。







ただ、計算してみると、一分間あたりの呼吸数は、

一難によると、一昼夜で一万三千五百息呼吸するということですから、

  13500(息)÷24(時間)÷60(分)=9.375(回/分)

となりますから、平人の呼吸数は、一分間に9.375回であるということになります。

ですから一息四至であればその脉動数は、

  9.375×4=37.5回

一息五至であればその脉動数は、

  9.375×5=46.875回

一息六至であればその脉動数は、

  9.375×6=56.25回

ということになります。

現在知られている一分間の脉動数(脈拍)に最も近い数値は、一息六至ということとなり、一息四至というのは、《難経》の記載どおりであれば、現代人にとっては、なんとも非常な遅脉であるということになります。

悩ましいところであります。







結論的にまとめてみますと・・・・・・・・・・

ということになります。素直に読めばですけれども。

《霊枢・五十営》と《素問・平人気象論》では、内容が異なっているということになりますので、この点の解釈を統一しようと、歴代の解釈家達は苦しんだのでしょう。しかし上記した通り、二つの解釈を統一させることはそれ自体に無理があります。

ところが、脈拍数を実際に計算してみると、すべての説において現代人には合いません。一分間の呼吸数、9.375回というのが、そもそも少なすぎるのですね。

ではこの矛盾に対して現代の臨床家はどのように対応しているのでしょうか。

現代の臨床家は、そもそも一分間の平人の呼吸数を十八回程度と考えていると思います。(このことを明確にしている人を、私は実は存知あげておりませんけれども)

そして、この十八回に対応させて、一息四至となるというあたりでこの問題を解決していると思えます。

つまり、一分間の脈拍数が七二回ということを標準にしているのですね。これであれば、古典の至数に関する指示と現代人の体質状況とがある程度符合して見えるわけです。

しかしより現実的にはやはり、西洋医学で測定されている数値を参照するということの方が、現実的でしょう。

それを参照しながら、東洋医学の臨床においては、患者さん個人々々の状態に従って、その時々の状況(歩いてきた後・食後・外気温など)を考え合わせながら、また脉状を勘案しながら、個人々々の正常範囲を予測し、個別具体的に判断していく。ということが、より誠実な臨床への指針となりましょう。







ということで、現代西洋医学の書物に記載されている正常な脈拍数と呼吸数を一応あげておきます。




体温、脈拍数、呼吸数の正常値の目安
体温 脈拍数(1分間) 呼吸数(1分間)
ふつうの成人 36~37度 男子 65~75
女子 70~80
15~20
老人 成人よりやや低い 60~70 15~20
子供 成人よりやや高い 学童 80~90
幼児 110~120
20~25
25~30
新生児 37~37.5度 130~140 30~35

「寝かせきりにしない家庭介護」P14.下段表参照
これは以下のアドレスのページを参考にしました
http://www.msja.co.jp/zaitaku/meyasu.html







2002年 7月 7日 日曜   BY 六妖會




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