第十四難の検討



十四難は、盛り沢山でありまして、思想地図に従うならば、今回は最後の一段のみを相手にするだけで足りるということになります。

しかし、そろそろ《難経》の書きぶりにもなれてきたところでもあり、また、前段の損至の脉状に描かれている全体観が最後段の前振りとも考えられますので、ここはいちおう、浅く全文を読んで行くことにします。

浅くというのは、五行の部分を一つ気のの「うねり」状況として、一元の気の変化をどのように表現し見取っていくのかという観点から読みながら、最後段の分析に重点を置いていこうということを意味しています。

少々行程が長いので、如何に、十四難学習の道筋を目次形式で呈示しておきます。それぞれの項目をクリックすると、該当文章に飛ぶことができます。




第十四難学習の道筋




  1. 全文を通して読む。

  2. 全文の構成を、仮説として呈示する。

  3. 個別の問題を片付けてゆく。

    1. 「至の病を治めたもの」の問題。
    2. 「損を治療する方法」とあるのは、損脉を治療する方法なのか虚損を治療する方法なのかという問題。
    3. 九難との関連
    4. 「肝損には中を緩める」という概念。
    5. 「呼吸再至」の問題。
    6. 至脉損脉と、上下、寸尺、大小、前後、の意味内容とその関係。
    7. 外感における損至と、内傷における損至の問題。
    8. 『上部に脉があり下部に脉がない場合は、』以下の読み方。
    9. 『上部に脉があり下部に脉がない場合は、その人は吐くべきです。もし吐かない場合は死』ぬという文言の内容。
    10. 『たとえれば』の文字の位置。
    11. 葉霖の、虚損病の場合には、損脉よりも至脉の方が危険であるという説について。
    12. まとめ。


  4. 全文を通して読む。

  5. 最後に、一息はいったい何至なのかという問題へ




十四難の構成



十四難の構成がどうなっているかというと、

  1. 損至の脉状の診方
  2. 虚損病においては、損脉の病は上から下へ、至脉の病は下から上にいくということ
  3. 虚損病五種類の治療法
  4. 外感病における損至の脉状、病の軽重と予後
  5. 尺位の脉の大切さ

    というふうに、広岡蘇仙の解釈にしたがうとなっています。ことに、前半が虚損病を述べたもの、後半が外感病を述べたものであるとする解釈は、広岡蘇仙の独自のもので、非常に興味深いものとなっています。このことに関しては後に、詳しく考察が加えられています。







損至の脉というと難しいことを言っているような感じがしますが、要は、至脉が数脉であり、損脉が遅脉を意味します。その数の程度・遅の程度を五段階に分けて、その程度が甚だしいと危険度が増しますよ、ということが述べられているわけです。

その危険度の増し方は、損脉の場合は上から下へ(これを臓腑に配当して、肺心脾肝腎と損傷の度合が広がっていることの現われであり)、至脉の場合には下から上へ(これを臓腑に配当して、腎肝脾心肺と損傷の度合が広がっていることの現われであると)し、それぞれの治療法と予後とが前半では内傷病として単純に、後半では外傷病として外邪を想定してその脉状もより詳細に、述べられているわけです。

そして最後に、尺中の脉位を樹木の根にたとえて、『樹に根があれば、その枝葉が枯れてしまっても根本からまた再生しようとします。同じように脉にも根本があれば、その人には元気があるということなので、死ぬことはないと理解するのです』と述べています。

このようにして、尺中の脉位の状態の大切さを『根本』であり『元気』の現われる場所であるとして強調しているわけです。







この全体の流れは、以下のように読み替えることが出来ます。

病態においては、平常な脉状よりも数脉を呈する場合と、平常な脉状よりも遅脉を呈する場合とがあります。

それぞれその程度の甚だしい場合は生命も危険となっている徴候です。

寸部に脈があって尺部に脉がないのに、吐かなければ死にます。

尺部に脉があって寸部に脉がない場合は、樹の根はまだしっかりしていると見られるので危険性はありません。

以上の文脈の中にさらに詳細な五行観念を挿入し、病状や治法を付していると。

次に、歴代の解釈本の記載の異なる細かな問題点について整理しておきます。




個別の問題について



「至の病を治めたもの」の問題。



これは、以下の《難経》原文の下線部分に対する考察です。

『損脉の病状にはどのようなものがあるのでしょうか。

然なり。一損は皮毛が損なわれ、皮膚が集まり毛が落ちます。二損は血脉が損なわれ、血脉虚少で五臓六腑を栄することができません。三損は肌肉が損なわれ、肌肉消痩し飲食が肌膚となることができません。四損は筋が損なわれ、筋緩み自ら収持することができません。五損は骨が損なわれ、骨が痿えて床に起つことができません。これと反対の順序で起こるものは、ここに至の病を収めたものです。上から下り、骨が痿えて床に起つことができなくなったものは死にます。下から上り、皮膚が集まり毛が落ちるものは死にます。 』







これに対する広岡蘇仙の注には、

『「ここに至の病を収めたものです」の「ここに」とはここに於てという意味です。「病を収めたもの」とはその病を収納するという意味です。収病はまた主病とも言うことができます。つまりは、至脉がここに病を主るといった意味となるのです。上から下って腎に至り、下から上って肺に至って五臓全てが損なわれた場合には死にます。古説にはこの「ここに至の病を収めたものです」という部分は、「至脉の病です」と改めるべきであるとあります。』とあります。

ここに古説とあるのは、滑伯仁の説です。広岡蘇仙のこの部分に対する解釈そのものはしかし、滑伯仁の解釈と異なることはありません。

清代初期の徐霊胎・江戸時代の丹波元胤・清代末期の葉霖もこの、滑伯仁の改訂を是としています。丹波元胤はさらに、《脉経》においてもこの原文と同じ文字が使用されていることから、この間違いが滑伯仁によって改められるまで、長期にわたって続いていたものであろうと述べています。

ちなみに現在人民衛生出版社版の《脉経》と《難経校釋》では、滑伯仁の《難経本義》の改訂に従う形で、校勘によって改められています。現代日本の本間詳白の《難経の研究》では、この《難経》の原文は誤字であるとされています。







この部分の漢文は、『反此者至於収病也』となっています。これをもし前後関係を考えず、原文どおりに素直に読むと、「これに反するものは収病に至るものです」となります。つまり、一損から五損へというこの病状の進行に反して逆に起こる場合には、病が癒えるとも読めるわけです。

ところがその後に、『上から下り、骨が痿えて床に起つことができなくなったものは死にます。下から上り、皮膚が集まり毛が落ちるものは死にます。』とあり、一損から五損へ、五損から一損への、双方ともに死ぬということが明確に述べられているため、歴代の解釈家がこの『反此者至於収病也』という文言の解釈に非常に苦しんだことがうかがわれるわけです。

広岡蘇仙の読み方にも、その前後関係を踏まえながら読みながら、原文の漢文の意を損なわないようにとの苦心が、非常に深く表れています。







この説には異説もあります。三世紀の呂広は注して、『収とは、取るという意味です。経には損家の病だけ掲載されていて、至家の病は掲載されていません。ですから、損脉はこのような病となりますが、至家の病ではありません。』と述べています。しかしこれはこじつけであろうと、丹波元胤は評しています。

広岡蘇仙は、苦労してそのまま読んでいますが、ほんとに、ご苦労様であります。誠実な人柄がしのばれます。

しかし、滑伯仁が述べるように書き換えてしまった方が、解釈はすっきりできます。




「損を治療する方法」とあるのは、損脉を治療する方法なのか虚損を治療する方法なのかという問題。



次の段の冒頭、『損を治療する方法』とありますが、これは、損脉を呈するものを治療するという意味なのでしょうか?

滑伯仁はこの問題には触れていません。1261年南宋の《黄帝八十一難経纂図句解》には、『治損』の部分が『損至』となっていると、凌耀星さんは述べています。それを日本語訳にすると、『損至の方法』となります。こうしてしまうと、『治療する』という文字が抜けてしまうことになりますので、収まりが悪くなりますね。却下しましょう。

徐霊胎は、『損を治療する方法を述べているのに至を治療する方法を述べていません。そもそも損至の脉状は、上から下へ、下から上へという違いはありますが、五種類の病状は同じものです。そのため、損を治療する方法だけ述べていてもそこには、至を治療する方法も備わっているわけです。』と述べています。丹波元胤もこの説をそのままコメントなしに引用して注とし、現代中医の凌耀星もこれに賛意を唱えています。

ということは、彼等は、虚損病一般の治療ではなく、損脉を呈する病を治療する方法がここに述べられている、と理解していたということがわかります。







本間詳白はその《難経の研究》で、『此の損は損脉の意ではなくて五臓の損傷の意である。』(59P)と述べています。

結論的には本間詳白のように考えるとすっきりします。損脉も至脉も、五臓の損傷を表現している脉状であるから、その治療法は同じであるという内容を表現した解釈です。




九難との関連



ここに九難の記載をそのまま適用するなら、損脉は遅脉ですから臓病を表わしているのでこの治療法を述べ、至脉は数脉ですから腑病を表わしているためにその治療法には触れていないと解釈することも可能です。しかしそのような解釈がなされた形跡がないところをみると、九難の記載があまり重視されていなかったとみることができるでしょう。




「肝損には中を緩める」という概念。



『問いて曰く。肝損には中を緩めるという、その意味は何なのでしょうか。 』

『答えて曰く。土地が堅く瘠せているときは草木も生ずることができません。中州が緩んで調和している状態は、豊穣な大地のようなものです。脾土が肥えて軟らかいときは、肝木も盛に育ちます。これが肝を滋養する方法なのです。 』

広岡蘇仙はこのような比喩を用いて解釈しておりまして、とても説得力のあるものであると思います。







滑伯仁は別の角度から解釈をしています。『肝は血を主ります、血が虚すれば中気が不足します。またよく言われることに、肝は怒りを主ります、怒りは肝を傷ります、そのため肝を損傷したものはその中を緩めるのです。経に、肝は急〔伴注:引きつれ:緊張〕を苦しみます、急には甘いものを食べてこれを緩め、緩めば、和します。とあります。』と。この中で経とあるのは、《素問・蔵気法時論》です。

中気すなわち脾気を補うには甘味をもってするというのが古典の指示であることを頭に入れてこれを読むと、肝が損傷し→血虚し→中気不足し→甘味で補う(中を緩める)という思考回路と、怒りによって肝が損傷される→肝の損傷は急となる→甘味で急を緩めるという思考回路の二つがあることが理解できます。

広岡蘇仙のように味わい深くはありませんが、古典にしたがった正統派の解釈という感じがしますね。

徐霊胎・葉霖は、滑伯仁の解釈のうちの後者のものを自身の解釈として述べています。

現代の《難経訳釈》《難経校釋》も滑伯仁の後者の解釈を採用しています。

本間詳白は、歴代二種類の解釈があるとして、滑伯仁の二つの解釈を掲載しています。







三世紀の呂広が、『肝は怒りを主り、その気が急となりますので、鍼薬を用いてその中を緩めます』と述べていると、凌耀星さんは引用しています。これは鍼薬の中に甘味も包含されるという解釈なのでしょう。鍼が入っているのが嬉しいですね。




「呼吸再至」の問題。



次の段について広岡蘇仙は『また呼吸再至と言っているものは、おそらく三呼三吸、四呼四吸二至という意味ではないでしょうか。しかしこの部分について古代の説では衍文〔訳注:誤って混入した不要な文章〕であるとしています。けれども、この文は答辞の中にも書かれているので、衍文であると判断することは必ずしもあたらないのではないかと思います。』と述べています。古代の説とあるのは滑伯仁の説です。

広岡蘇仙以外は皆な、滑伯仁の説を支持し、答辞の中の文字も衍文であるとしています。

清代の《古本難経闡注》には『呼吸再至』が『呼吸不至』となっており、答辞の該当部分は文字が書かれていないということです。清代の葉霖はこれに基づいて原文を改めています。

具体的な解釈にはあまり影響のない部分ではあります。




至脉損脉と、上下、寸尺、大小、前後、の意味内容とその関係。



至脉損脉はその脉拍の数遅を意味するということは歴代の解釈家の異論のないところです。

また、上下というものが身体における上と下であるということも異論はないところでしょう。そしてこれが、寸部と尺部の部位に現われると考えています。

寸尺というのは、寸口の脉の寸部と尺部を意味しています。

大小というのは、寸口の脉を細かく見て、その部位の脉状の大小を意味しています。







それでは前後とは何を意味しているのでしょうか。考えられる解釈には三種類あります。

A:寸位が前であり尺中が後という意味

B:脉動が起こる始めが前であり脉動が去る終りが後ろという意味

C:浮位沈位という意味

この前後について広岡蘇仙は、『前に来る脉が大で後に去る脉が小のものは、前は陽、後は陰、大は病状が悪化していくと考えます。』と述べていますので、Bの観点で見ているのではないだろうかという予想ができます。滑伯仁も十五難における鈎脉の例を挙げてこの観点をおしています、丹波元胤も滑伯仁のこの注だけを引用していますので、これを支持しているということでしょう。

ちなみに、十五難の鈎脉の例とは、『夏脉は鈎。心は南方の火です。万物が繁茂するところなので、枝を垂れ葉が茂り、全て下り曲って鈎のようになります。ですからその脉状は、来るときは疾くて去るときは遅いので、鈎と名づけます。 』というものです。







しかし、徐霊胎・葉霖・凌耀星それに現代中医の《難経校釋》《難経訳釈》は、皆な前は寸位の意味、後ろは尺中の意味であると断じています。

また日本の本間詳白は、Cすなわち前は浮位の意味であり後ろは沈位の意味であると述べています。それは、前大後小の説明として『始めに指を軽く当てるに大きく、次第に沈めて行けば小さくなって行く即ち浮にして大、沈にして小なる脉である』(61P)と述べられていることから明らかです。

本間詳白の説は、指を沈めていく時間的前後という意識の中から出てきたものでしょうが、同じ段の後半に『浮大』『沈細』などの文言が使われていることから考えると、なぜ、この場所で『浮』『沈』を『前』『後』という文字で置き換えなければならないのかという、説得力に欠けます。却下しましょう。

AかBかという判断になりますが、この文章を、寸位尺中の部位の陽と陰でみるのか、来る状態が大きく去る状態が小さいという動きの中でみるのかという、診方の違いにかかってきます。どちらがこの文脈の中で適切なのか、ということですね。

そう考えてみると、ここの段は脉状を説いているのであって脉位を述べているのではないということが、他の脉の表現をみればわかります。Bの「脉動が起こる始めが前であり脉動が去る終りが後ろという意味」と解釈する方が適切であるということが理解できるでしょう。







『前小後大のものは、病が上部の下位にあります。ですから胸中窒碍して〔訳注:ふさぎさまたげる状態で〕緊満し、肺気が活発に活動できなくなって短促〔訳注:呼吸が短く速くなること〕します。これは外感病に罹りかけたことを表わしています。ですからその病の位置は上にあり表にあり、その脉状が大であれ小であれ頭胸の間に留まっています。 』と広岡蘇仙の注にはありますが、前小後大ということは陽虚陰実という意味になりますので、それで、『胸満短気』すなわち『胸中窒碍して緊満し、肺気が活発に活動できなくなって短促』するということは、少し理解しにくいところです。陽虚なのに肺の実証にみえますものね。

この病理現象について清代末期の葉霖が説明しておりますので聞いてみましょう。彼は、前を寸部、後を尺部として解釈しています『寸小尺大のものは、病気が陰にあるものです。清気が下陥していて、脾肝が上らず、肺胃が降らないために、胸満短気となります。』つまり、清気が下陥してしまって陰陽の交流がうまくいかなくなり胸苦しくなってしまうということです。

しかし、この前小後大を上記Bのように「脉動が起こる始めが前であり脉動が去る終りが後ろという意味」と解釈すると、理解が異なってきます。邪気が侵襲してきて上焦の部位で戦っている。前大後小の場合はまだ浅く、前小後大の場合はそれが少し深くなっている段階であると。広岡蘇仙が『病が上部の下位にあります。』と述べている意味はここにあるのですね。前後という言葉が全身の陰陽を代表するものとして捉えられているのではなく、上焦の部位での陰陽として捉えられているわけです。

この解釈は、前段が内傷を述べたものであり後段が外感を述べたものであるとする考え方と一致し整合性がとれていますし、前後という言葉が『一呼三至・一吸三至』の中にだけ〔注:つまり邪気の侵襲の初期にだけ〕使われている意味が明らかになります。

そう考えると、この病症も、葉霖のような変な理屈をこねずに、すっきりと理解することができます。

前後を、浮沈や寸尺を示しているものと解釈することは、まったくの誤りであるということが、非常に明確になりましたね。




外感における損至と、内傷における損至の問題。



広岡蘇仙の注の下の方に、

『外傷は陽に属します。陽の性質は上り進むものです。ですから一呼五至〔訳注:一息十至〕というふうにその脉動が増至していく際、外傷のものに対して困と名づけているのは比較的軽症であるということを表わし、内傷のものに対して死と名づけているのは比較的重症であるということを表わしています。』

『なぜ軽症であるかというと、脉動が増至していくのは陽であり、外傷も陽であって、同じ陽として強く現われているからです。また内傷の場合になぜ重症であるかというと、脉動が増至していく陽と、内傷という陰とが異なった気として弱く現われているからです。外傷に三呼四呼〔訳注:二息一至〕まで遅脉が掲げられていないのも、脈動が減損していくということが陽の性質に反しているからです。』

と述べられています。

この後半部分は、外感に対して抵抗力を発揮しようとして生命力が動員されて、生命機能が強く発揮されるために陽気が強く現われ、逆に外感の場合であってもすでにその邪気に負けているために損脉を呈する場合には病状が重いのであると考えることもできるでしょう。




『上部に脉があり下部に脉がない場合は、』以下の読み方。



次の最終段、『上部に脉があり下部に脉がない場合は、』以降に対して、本間詳白は『此れより以下の文は前文の脉の遅数論に続くものでなく、二難、三難の寸尺論からの続きか、又は八難の原気の論と並び説かれるものである。全く別の内容の説が十四難の後部に誤って綴られた文章である』(63P)としています。

しかし、他の注釈書を読むとそのような記載はみられません。

徐霊胎にいたっては、『「上部に脉があり」以下は、上文の損至の論理を極言して〔伴注:言葉を尽くして〕述べているものです。無脉の原因にもまた両端があり、それをそのまま死ぬと断定してはできないとしているのです。』と、損至を述べている部分との関連性を述べています。

損至が、脉状としての遅数を中心に説かれていることから考えると、ここに寸口尺中の位置としての上下関係が全身との関連で提出されていることには本間詳白の言う通り唐突の感を否めません。しかし、二難・三難の寸尺論はまだ脉の基本的な動きというものを概念的に説明しているに過ぎず、また八難の原気の論と結びつけると、より臨床的な香りのするこの段の意味が薄くなってしまいます。

このように考えていくと、ここに入れるのが適切であろうと思われます。




『上部に脉があり下部に脉がない場合は、その人は吐くべきです。もし吐かない場合は死』ぬという文言の内容。



なぜ、『上部に脉があり下部に脉がない場合は、その人は吐くべきです、もし吐かない場合は死』ぬのでしょうか。

この『上部』とあるのは寸口の部位であり、『下部』とあるのは尺中の部位であるということは、定説となっています。







広岡蘇仙は、『上部に脉があり下部に脉がないものは、全て上実の状態です。外邪が上に実しているために気が上に集まっている場合、吐くことができると上が通利するため気が下に帰って来るので治ります。それに対して内が虚したために上が実している場合は、気が上に集まったまま下に戻ることができません。そのため下部の気も虚して死んでいくのです。』と解説しています。非常に説得力があります。







滑伯仁はこの部分に関して二人の解釈家の説をあげています。

紀氏〔注:紀天錫:1175年集注難経〕の説は、『上部に脉があり下部に脉がないというのは、邪実が上にあるためなので、まさに吐くべきです。もし吐かなければ、邪が上になく下の気も竭していますので、死ぬといっているのです』というものです。

李東垣〔注:金元の四大家の一人〕の説は、『下部に脉がないのは木郁です。飲食を摂り過ぎ、胸中の太陰の分を填塞せしめたために、春陽の気が上行できなくなってしまったものです。これは木郁ですので、木郁するものはこれを通せばいいわけですから、これを吐かせるというのは是とすべきでしょう。』というものです。

広岡蘇仙の解釈の方が気の動きがよく表現されています。







徐霊胎は、『吐こうとしているということは気が上に逆しているということですから、脉もまた上ります。下部に脉がなくとも、吐くことによって戻れば本当はその根を離れていません。もし吐こうとしてもいないのに脉がなければ、脉は本当になくなっているもので、気逆によるものではないために、死ぬと言っているのです。』と解釈しており、清代末期の葉霖もこの説を借用しています。




『たとえれば』の文字の位置。



『問いて曰く。昔の人の中には、たとえればという字は、樹に根があるようなものという字の前に来るべきであると言っている人がいますが、どうでしょうか。 』という問いかけの中にある『昔の人』というのは滑伯仁です。

この滑伯仁の説に対して、ほとんどの医家が是としていますが、これは、《難経鉄鑑》の答辞で答えが出ていますし、こだわるほどのところでもありません。




葉霖の、虚損病の場合には、損脉よりも至脉の方が危険であるという説について。



清代末期の葉霖によって書かれている《難経正義》では、虚損病の場合には、損脉よりも至脉の方が危険であるということが述べられています。前にも述べましたように、葉霖は、前後という言葉を寸部と尺部として解釈しておりまして、この難が、内傷病と外感病の区別を明確に行いながら書かれているということは認識していませんでした。

しかしその最後の解説部分において、損脉を呈する病が上から下へ危険度を増し、至脉を呈する病が下から上へ危険度を増しているのは何故か、ということに着目して書いていますので、しばらくその説を聞いてみましょう。

『損脉とは遅脉のことであり、至脉とは数脉のことです。どうして遅数という言葉を使わずに損至という言葉を使っているのでしょうか?

遅数の脉状は、寒熱表裏虚実を統摂しているものですからその範囲が非常に広くなりますので、越人は後学が間違えることを恐れたのだと思います。このため、一息四至から十二三至にいたるものを至、一息二至に始まり二息一至にいたるものを損としたのでしょう。このようにして、損脉が上から下へ、肺の気虚から腎陽の虚竭まで、至脉は下から上へ、腎陰虚から肺気が尽きるまでとしたのです。

そう、損脉はもともと肺からおこった病であり、もし治療に失敗すると心脾肝腎に及び、損脉は必ず反して至脉となり、腎虚火燥によって、さらにふたたび腎から肝脾心肺に及んで死ぬわけです。ゆえに、『これに反するものは至脉の病です』と述べられているのです。

以前、虚寒の症状のものが最後には躁急の脉となったものをみたことがあります。これは損を治療する方法をよく知らなかったために陽を助けるのが遅れ、しだいに陰気も竭せしめたものでした。陽を助けるという事は、胃脘の陽をしっかり助け、さらに五臓の損傷をよく観察してこれを益すということであり、いたずらに生姜・桂枝・烏頭・附子にこだわることを言うものではありません。

さらに進んで近世の医家には、虚労という二字をもっていつも、恐れるべき病の通称としているものがいます。虚損病が上から下へ行き、癆瘵の病が下から上へ行くことを理解できていないのです。そのため、癆瘵を治療する場合に虚損の方法を用いて、泄瀉せしめてみたり、虚損の治療をする場合に癆瘵の方法を用いて、喘促を起こさせたりしているのです。これは、ものごとの筋道を理解していないために、目的と反する行いをしていると言わねばなりません。この理由はすべて損至の意味を理解していないところにあります。

越人はここに損至の脉という形で虚損と癆瘵の治療法を明らかにしました。しかし急証で脉の触れないものがでた場合に、後人がこれを理解できなずに損脉に入れることを恐れたため、さらに上部に脉があり下部に脉がないもの、上部に脉がなく下部に脉があるものの意味を明確に述べて、ふたたび元気を重んずるというところに帰着させて、この章を結んでいるわけです。』

と。







さて、彼の言葉は正しいものなのでしょうか。

彼は、虚損病を陽虚の病、癆瘵を陰虚の病と規定して論を構成しております。それはそのまま、前提としておきます。

それでは、内傷の虚損病では、陽虚のあとに陰虚になって死ぬということを、この「難」では語られているのでしょうか。そういう順番であるということが、述べられているのでしょうか。

それが違うということは、《難経》の『上から下り、骨が痿えて床に起つことができなくなったものは死にます。下から上り、皮膚が集まり毛が落ちるものは死にます。 』という文章を読むと理解できます。

これは、損脉の経過の果てには死に、至脉の経過の果てには死ぬということを並列させて述べているのであって、損脉から至脉へと病状が重くなるということを述べているものではありません。

また、この難全体としても、虚損病一般の盛衰について述べたものではなく、内傷と外感の病について、損至の脉状を使って語っているという説の方が説得力があるということは上で述べた通りです。重大な誤読があると言わなければなりません。そして、これは、現代中医学のこの難に対する理解にも現われているということを付しておきましょう。




まとめ。



陰陽の盛衰として見て興味深いところは、

  1. 虚損病の場合は、損脉(遅脉)が甚だしくなる場合には上から下へ、表から裏へと病位が深まっていく状態である。
  2. 虚損病の場合は、至脉(数脉)が甚だしくなる場合には下から上へ、裏から表へと病位が拡散していく状態であり、
  3. 外感病の場合は、上よりも下の方が、表よりも裏の方が病位としては重症である。
  4. 外感病の場合は、至脉よりも損脉の方が危険である。
  5. 枝葉よりも樹の根が大切。これは、虚損病・外感病ともに言えることである。

    といったことになりましょうか。

  6. これを敷衍すれば、虚損病の場合は、裏の虚損と見られる至脉の方が、損脉よりも危険であるということを意味し、外感病の場合は、その逆であるということを意味しています。

臨床的に考えてみるとしかし、虚損病と外感病とは重なっておこっていることがほとんどですので、よく弁別し総合的に考えを進めていかなければいけません。弁証論治の大切になるところですね。







2002年 6月 9日 日曜   BY 六妖會




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